カルトとは何か

T:カルトとは何か
「カルト」かどうかを見分けるためには、彼らの信じるものや教義を十分見極めなければなりません。その中でも人間の尊厳や自由、そして人権を著しく侵害する策略や行動があるかどうかを観察するべきです。
 つまり、それが有害か、あるいは非常に危険であるか、そして邪悪なマインドコントロ−ル、「三つの破壊」、「三つの詐欺」という、カルトの持つ三つの特徴があるかどうかを見分けるのです。

 

A:邪悪なマインド コントロ−ル・テクニック

1:認識(意識)に関わるテクニック

 

 メンバ−は魅力的であり単純化されたメッセ−ジを出発点として、一つの考え方を詰め込まれ、知識的集中攻撃を受けます。(何度もミ−ティング、研修、セミナ−を繰り返し、また勉強会、読書会、カセットテ−プを聞かせる、お祈り等々)。そうするうちに、その破壊的カルトの理論、方法、実践に対して批判する力や判断力が徐々に失われていき、盲目的につき従うメンバ−になってしまいます。
2:行動に関するテクニック
 心理学や精神医学の分野で良く知られたテクニックでありますが、最初は単純で繰り返しの多い行為を行わせ、だんだんそれに没頭させるようにし、服従・隷属させていきます。そして本人の自由意志をなくしてしまいます。
3:感情に関するテクニック
 メンバ−は当初、リ−ダ−のカリスマ性(特殊な能力)、リ−ダ−のメッセ−ジ又はその集団に心を奪われます。その次には自分自身の感情が抑圧されていき、それに伴って自分自身のバランスが崩れていく自己破壊、あるいは自己の構造の解体が起こります。そして、グル−プ意識を共有するようになり、同時に、グル−プに帰属する「快感」「優越感」が生ずるに至り、自分が完全に作り変えられていきます。知らないうちに、どんな事でも信じ込み、語り、行ってしまうのです。
B:三つの破壊 


1:人間の破壊(精神面の破壊


2:家族の破壊

 親子や夫婦の断絶、別居、離婚に至る破壊
3:社会的破壊
不当な干渉、思想への浸透、組織からの解離といった戦略による破壊
C:三つの詐欺


1:知的詐欺
メンバ−は自分が求めていた答えに対して、まったく違った答えを与えられます。破壊的カルトのメッセ−ジは魅力的です。しかしそれは、単純化された破壊的メッセ−ジであることは明らかです。
2:道徳的詐欺
多くの破壊的カルトのメンバ−は性的及びあらゆる種類の虐待の犠牲者です。

 

3:金銭的詐欺
破壊的カルトの架空の力(宗教的、医学的)をメンバ−に信じ込ませ、詐欺的行為を行なわせています。

 

U:カルトの4つの主要なタイプとは何か
A:宗教カルト
 宗教カルトは一番よく知られており、数も一番多いのです。この集団は、宗教的教義に焦点をあてます。あるものは聖書を、あるものは東洋の宗教をベースにします。あるものはオカルト伝説を使います。純粋に指導者が発明したカルトもあります。
B:政治カルト
 ふつう「周辺的」とか『過激」とかという形容詞でよくニユースとなります。しかし彼らの騙しの勧誘やマインド・コントロールの手ロ一一この点で彼いま普通の政治的熱狂メンバーと異なるのだが一一については、人々はほとんど聞いていません。これらの集団|は、ある特定の政治的教義をめぐって組織されています。

C:心理療法またはま教育カルト
 普通ホテルの集会室で何百ドルというワークショップやセミナーを開いて、「洞察」と「啓発」を提供します。これらのカルトは参加者に「絶頂」体験を与える為に、沢山の基礎的マインド・コントロールの手法を用います。
D:商業カルト

 貪欲な教義を信奉します。彼らは人々を騙し操って「儲かる」という野望の為に、わずかな報酬で、または無報酬で、働かせます。ピラミド型あるいは多重型の(つまりネズミ講式の)販売組織が沢山あって、大金を約束するが、実際は被害者を丸裸にしてしまうのです。その上で、被害者たちの自尊心を破壊し、不平を言わないようにします。成功は、どれだけ新人を勧誘するかにかかっており、その新人がまた他の新人を勧誘します。

 
カルトの八つの特徴
 スタンフォ−ド大学の社会心理学者、フィリップ・G・ジンバルド−博士の、カルトの八つの特徴です。
[1]

 グル−プの中で教祖は自分自身を崇拝させ、特別な使命を持っていると教ている。
例えば−自分自身が神様であるとか、イエスの生まれ変わりであるとか、全を救う
ための使命があるとか言うのです。そして、その教祖について行く人たちだけが救われ
、ついて行かない人たちは滅びると教える。

 

[2]

 教祖は自分と教義に対してメンバ−に絶対的な服従を求める。例えばどんな命令で
もメンバ−は従わなければなりません。メンバ一の判断ではなく教祖と教義の判断が
必ず正しいのです。全ての問題に対して最後に教祖だけが決断することができます。
教祖や教義あるいは組織に対しての批判は許しません。

 

[3]

 カルトの教祖(リ−ダ−)は大きな権力を持ち、しばしばカリスマ的である。それに
よって教祖(リ−ダ−)はメンバ−たちに魅力を感じさせながら彼らの行動を管理する。例えばー
メンバ−たちは家族や友達、大学や仕事を捨てて教祖(リ−ダ−)に従います。教祖(リ−ダ−)はメンバ−たちの財産、お金人間関係あるいは命までコントロ−ル
します。

 

[4]

 カルトは教祖(リ−ダ−)を盲目的に信じている人々によって成り立っている。メンバ−たちを経済的、政治的な分野にも進出させる。この点で破壊的カルトの多くは、普通の宗教と違っています。破壊的カルトは宗教のイデオロギ−(教え)を利用し、メンバ−たちの経済的、政治的活動を宗教的な活動と混同させてしまいます。さらにはそのような経済的、政治的活動が宗教的イデオロギ−にとって変わったりすることがあります。例えば−あるカルトはメンバ−たちに日本全国をワゴン車で移動しながら、品物を売り、お金を集めさせます。一般の人から見ると、この活動は教祖(リ−ダ−)と組織のための一つのビジネスであるに過ぎません。しかしメンバ−たちは、この活動は神様や人々の救いのために行なわれていると信じています。あるグル−プはこれと同じシステムで、選挙の時に決められた人に投票しなければならないと教えます。

 

[5]

 カルトはグル−プの本当の目的を隠している。例えば−お金。人を集める、集団を維持するという目的 

 a:メンバ−たちが多くの時間を使ってお金を集める。

 b:メンバ−たちが多くの時間を使って新しいメンバ−を勧誘する。
 c:メンバ−たちの活動に関連して非常に多くの時間を使って組織を維持し、
   拡大する。

 

[6]

 人の善意を利用する。カルトに入る多くの人々は、平和な社会を作りだし、全ての人類
が幸せになることを願っている純粋でまじめな人たちです。カルトはこのことを利用し、
人々を勧誘するためにつぎのように教えています。「私たちのグル−プに参加すれば、
恵まれない子供たちや飢えている人々や世界の平和のために働くことができる。」と
言います。メンバ−たちはいろいろな活動を通して一心にお金を集めています。しかし
このお金は決してその目的のためには使われていません。教祖(リ−ダ−)のもとに
集められるか、組織の拡大のために使われてい ます。もちろんこの現実はメンバ−
たちに知らされません。

 

[7]

 
カルトは、メンバ−たちに自分は特別なのだと感じさせるように仕向けいる。例えばー
選ばれたなたがたは選ばれた人間である」とか、「あなたがたはエリ−トである」とか、
「あなたがただけが神様の真理を理解している」と言います。結果的にメンバ−たちは
一般の人たちよりも優れた存在なのだと信じ込むので、家族、友人等、メンバ−以外の人
たちから離れていきます。

[8]

  カルトは人間の持つ5つの基本的欲求を満たしているように感じさせる。
 a:個人の身の安全への欲求

 住居を与え、着るものを与え、食べ物を与え、仕事を与えているので、グル−プの中にいるかぎり何も心配することがありません。
  
 b:所属の欲求

 カルトのメンバ−になるとグル−プは自分の家族、友達になります。最初にグル−プはを無条件で受入れます。その人がそのグル−プのイデオロギ−(教え)さえ信じればその人に愛情を示します。あるグル−プではメンバ−にとって教祖(リ−ダ−)が父親のような存在になります。さらに、教祖(リ−ダ−)がいなくても、グループの一員になることによって他のメンバ−に対して強い連帯感を持つようになります。

c:社会的欲求

 どんな社会でも、多くの若者たちは、地位も権力もないという感覚を持っています。
そして本人、すなわち、自分よりもっと
年配の人たちが地立と権力をを握っていると感じています。カルトに入ると、人々はそのグル−プの意識を共有することができます。メンバ−たちは自分と教祖(リ−ダ−)が一体となれば非常に役にたつ人間になると思っています。普通は誰でも、社会や他の人間のために役にたちたいと望んでいます。そうすれば自分は価値ある人間になるからです。カルトはメンバ−たちにこのような欲求が満たされたように感じさせます。

d:精神性の欲求 (宗教的欲求

 多くの人々は日常生活の物質主義を超越したい欲求をもっています。精神的に自分を支えるために何かを信じたい、厳しい人生に対する自分の弱さから人間は癒されたいのです。宗教はその精神的な支えになります。このことをカルトは利用して、人々に「私たちは本当の宗教です」とか「私たちは本当の真理を持っています。」

e:依存の欲求 

   子供は両親や先生に頼ります。そして子供は両親に誉められると安心します。両親は子供の安全と幸福にも責任があります。大人になっても、多くの人々は善良な親に依存したいという貴族意識が無意識のうちにあると言われています。カルトの教祖(リ−ダ−)はこうした親の役割を果たすのです。そしてメンバ−たちは教祖(リ−ダ−)に頼れば自分たちの人生と幸福を保証してもらえると信じます。一方、教祖(リ−ダ−)は独裁者と同じことをします。あなた方は、私に頼れば全ての欲求を満たすことができる。ただ私だけに従わなければならないという交換条件を出すのです。そのやりとりの中で気付かないうちに、自分の個人の自由を失います。
  1941年ドイツ人のエ−リッヒ・フロム博士が「自由からの逃走」という、とても
興味深い本を書きました。この本の中でフロム博士は、全ての独裁者がこの交換条件を
いつも利用していると説明しています。実は独裁者に頼れば人々は欲求が満たされると
思っているのです。


 フロム博士によれば、人々がこの交換条件に応じるのは、成功しても失敗しても、責任をとらなくてもいいからです。誰か他の人が責任をとってくれます。独裁者は人々に「あなたは非難されないし、決して失敗もしません。非難や失敗は私が引き受けます」と言います。これは、独裁者だけではなく破壊的カルトの教祖(リ−ダ−)も同じことです。
 カルトのメンバ−は上司や教祖(リ−ダ−)あるいは組織が全て彼らの行動と活動に対して責任を取ってくれると思い込んでいるので、一生懸命頑張るのです。
 第二次世界大戦が終わった後、1946年にドイツのニュルンベルグという町でナチズムの軍事責任者たちの裁判が開かれました。その時に彼らは、ユダヤ人虐殺(ホロコ−スト)に対して「自分たちは何も責任がなく、ただその当時の命令に従っていただけである」と答えました。

 ある元カルトのメンバ−の証言によると、教祖(リ−ダ−)の命令に従っていろいろな
ニセ募金を集めましたが、その活動をするためにいつもウソをつかなければなりませんでした。しかし、その時に教祖(リ−ダ−)や上司が本人に「この活動を通してどんな問題が起きても、あなたには責任がない。私たちが必ず責任をとる」と言ったので、それを信じ込んで、本人は一生懸命その活動をしたのです。本人は救出カウンセリングを受けた時に、最初は「献金した人のほうに責任がある」とか「自分は命令に従っただけ。だから何も責任がないし、そして目的は正しかった」などと答えました。その後、本人が本来の自己を取り戻して全てがわかった時、その活動のまちがいと、自分にも責任があることを認めています。


全体主義的セクト

 

 去年7月10日、東京の弁護士会館でカルトの問題についてフランス人のマックス・
ブーデリック博士は講演会を開きました。マックス・ブーデリック博士は1923年生まれ、フランスのリヨン在住、自然科学と哲学の博士号をもち、フランスとベルギーの大学で生涯教育講座を担当するとともに、文部省と少年・スポーツ省の顧問として活躍中。ブーデリック博士はフランスのローヌ・アルプス地方のCCMM(マインド・コントロール救済センター)の代表として、約12年にわたってカルト問題の相談活動を担当してきました。カルトの問題についてプーデリック博士は四冊の本を書きました。博士は『カルト』の言葉を使うよりも『全体主義セクト』という言葉を使っています。プーデリック博士は『カルト』とは「同じ教義をもつ人間全体」あるいは「一つの宗派から離れた人間のグループ」のことだと言います。ラテン語でカルトは二つの意味が含まれています。一つは<sepul>『ついて行く』、二つは<secare>『切る』と意味します。このように、カルトについての定義は、教義や教義的意味に従って定められたものであり、元来そこに悪いものを暗示する意味は全くありません。


 すべてのカルトは危険なグループではありませんし、グループが危険かどうか見分けることはなかなか困難です。今はフランス語で『カルト』という言葉の意味は変化してしまい、日常の会話やメディア、世論などにおいて、『カルト』という言葉は悪い意味を持つようになり、ほとんどの場合、『危険なグループ』のみを指すようになりました。

 
1996年にフランス国会はカルトの問題について一つのレポート提出を受けました。そのレポートには、あるグループが『カルト』かどうか見分けるためには次のような条件をあげています。メンバーに精神的や肉体的破壊を行うとか、家庭を破壊するとか、子供に対して虐待があるなど、いろいろな面で反社会的行為を行っているということです。このレポートは、もしあるグループにはっきりこの条件があれば『カルト』と呼ぶことができると述べています。

 
フランスのカルトを研究している団体『ADFI』のメンバーであるトゥールスラ氏は
『カルト』を見分けるためにこのように考えています。

  『カルト』は

  a:邪悪なマインド・コントロールを使います。
   b:三つの破壊(1・人間の破壊、2・家庭の破壊、3・社会の破壊)をします。
  c:三つの詐欺(1・知的詐欺、2・道徳的詐欺、3・金銭的詐欺)をします。
 フランスのレポートとトゥールスラ氏の『カルト』の見分ける条件は事件として問題が
起きるというところから、その方法で見分けることが条件です。しかし、その見分ける条件の前提として、なぜそのようになったか、という考え方があまり入っていません。起きてしまった事件から物事を見るよりも、なぜこの事件が起きたのかというところから見ることのほうが問題の本質に迫ることができます。


 そういうわけで、プーデリック博士は『カルト』の言葉を使わないで、『全体主義セクト』という言葉を使います。フランス語で『全体主義』は<totalitaire>といいます。<ttotalitaire>は他者からの反対は絶対認めないし、民主主義の考え方も絶対に認めません。社会全体と人間の日プライバシーまでもコントロールします。
『セクト』はフランス語で<sectaire>と言います。<sectaire>は熱狂的なグループです。そのグループの意見は狭くて、厳格です。そして、強烈な異説排除を行います。


 プーデリック博士は事件を起こしても、起こさなくても、そのグループに全体主義的セクトのシステムがあるかどうかを知ることができれば、そのグループの問題を理解して、グループに入らないのではないだろうか。このように分析をすれば、そのグループのイデオロギーとか、宗教性とかにかかわりなく、システムがあるかどうかが、問題になってきます。なぜならば全体主義的なシステムを通して、人々を管理し、その管理を通して人間の自由判断を奪います。そして場合によって、反社会的な行動や事件を起こす危険性があります。

 わたしはプーデリック博士の考え方はとても興味深いと思っています。統一教会やオウム真理教は、はっきりと反社会的行為を行っています。しかし、他の組織はエホバの証人、ボストン・ムーブメント、ヤマギシ会などには、はっきりとした反社会行為は見られません。しかし、その組織は<totalitaire>と<sectaire>であることは間違いないのです。

 


マックス・ブーデリック博士
1998年7月10日、東京の弁護士会館で行われたマックス・ブーデリック博士のフランス語による講演の日本語訳です。

マックス・ブーデリック博士
1923年生まれ、フランス、リヨン在住自然科学と哲学の博士号をもち、フランスとベルギーの大学で生涯教育講座を担当するとともに、文部省と青少年・スポーツ省の顧問として活躍中。ローヌ・アルプス地方のCCMM  (マインドコントロール救済センター)の代表として、約12年にわたってセクト問題の相談活動を担当してきた。


<<主な著書:いずれも未翻訳>>

1:「イニシエーションの道」(1980年)
2:「セクト的集団ーマインドコントロールー」(1991年)
Sectes, manipulations mentales

3:「セクト的集団って何だろうー如何に対処すべきかー」(1995年)
Comprendre l'action des sectes

4:「全体主義とセクト的集団ーその教化の過程ー」(1998年5月)
Les Groupes sectaires totalitaires

5:「全体主義的セクトを理解するために」(1999年)
Les sectes Mangeuses d'hommes---Comprendre le phenomene sectaire totalitaire



セクト的集団の論理

全体主義的なセクト的集団

 まずはじめにセクト的集団がどういう集団であるかについてお話ししたいと思いますが、これらの集団がおしなべて主張するのはつぎのようなことです。つまり、私たち個人個人が生きていく上で理想を実現する秘訣を自分たちは知っているのだ、ということです。例えば、個々人に対して、精神的もしくは道徳的に完成の域に到達できるのだとか、健康や社会的成功の領域で理想を実現できるのだとか、あるいは理想的な政治組織をつくるにはどうしたらよいのかなどと、そういった秘訣を知っているのだ、と主張する。しかしそのために、新しい解決方法を提示しようというのではなく、逆に、これらの集団の指導者たちが独占的に会得している教えを、そのまま疑問をもたずに実行することによって、そのような理想を実現することができるのだ、と主張するわけです。

 これらのセクト的集団は偏狭で硬直した主張を行い、常に常軌を逸した狂信的な態度、いわゆるファナティズムによって駆り立てられています。またそのために攻撃的で不寛容であるということが彼らの基本的な態度です。さらにこれらのセクト的集団は、いかなる批判も受け付けず、そして彼らを統率する権力というものが民主主義的ないかなるコントロールも認めない、また、その権力は信者の最もプライベートな領域にまで影響を及ぼす、という意味において、全体主義的であると言えます。

 彼らのイデオロギーの根底には、いかなる疑いも挟むことを許さないような確信、あるいは思い込みと言うようなものが存在しています。

 このようなセクト的集団に対して、私たちはもう一つのタイプの集団をあげることができます。それは、一般的な宗教団体や、あるいは学会のような哲学者や科学者で構成された集団です。これらの集団の活動は常に研究のアプローチ方法に対して忠実で、自らの追求する理想に近づけるという確信を持ち、また、絶対的な真摯な態度を貫くという姿勢に支えられています。この「真摯な態度」ということが何を意味しているのかと申しますと、すなわち、自分たちが確信している考えなり、仮定といったものは、その都度その都度常に問い直さなければならない、ということです。このような態度は「科学的懐疑」と呼ばれるのですが、これがすべての科学や哲学を探求していく上で、不可欠な態度となっているのです。

 このような「科学的懐疑」をより有効にするためにはまず、個人的に得た研究の結果をほかの研究者のそれと突き合わせることをお互いに認めなければなりません。また、それは利用されるあらゆる知識や情報の源が検証可能な形で公表されるということでもあります。

 以上のように私たちは2つのタイプの集団を見てきたわけですが、これらの2つのタイプの集団において、なにが決定的に違うのかということをもう少し深くお話ししてみたいと思います。
 そのために、まず基本的な哲学の問題でもある3つの質問を通してそのことについて考えてみたいと思います。この3つの質問とはよく旅人の対してなされるものですが、同時に我々がこの世界に存在しているというなぞを要約している問いかけでもあります。
 その3つの質問とは、「お前はどこから来たのか?」「お前はどこへ行くのか?」そして「お前は何者なのか?」という問いです。
 これらの問題に答えようとするとき、その答え方の論理というものは2つの種類に分けられます。これからお話しする第一番目の論理がセクト的集団に特有のものなのですが、セクト的集団の論理には一つの特徴的な態度が見受けられる。それは先ほど問いかけた3つの質問の中でも最後の問い、「お前は何者なのか」という問題にしか自覚的でないということなのです。
 それでは、このセクト的集団に特有の第一の論理ですが、この論理は「直接性」ということを背景にして成り立っています。つまりこの種の論理は、私たちの誕生から死までの存在の期間、もしくはその周辺のことだけしか問題の対象にしないという態度です。多くの場合、このような態度は、私たちが生きている「今ここ」という直接的に自分に現れてくる現世的な問題にしか関心を示さず、それゆえ、そこにおいては過去も未来も来世も、現実の単純化されたイメージという形をとってしか現れてこないのです。従って、こういう論理においては、「私は誰なのか?」という問題に対して、結局、目前の直接的な状況の中だけでしか考えられないので、単に状況中の自分の役割といったものを確認するだけにとどまってしまうということです。

第一の理論

 それではこのような第一の理論がどのような構造になっているかをもう少し詳しく見ていきたいと思います。
 まず、このような論理は「類似性の追求」ということに基づいているのですが、それは、私たちに現れてくる様々な直接的な現実に対して、ただ部分的に理解できることだけをあてはめて満足してしまう、そういった類似性の追求だけで満足してしまう、という特徴をもっています。
 この論理は私たちの無意識の領域で行われているもので、そのプロセスはフロイトが言う一次過程というプロセスと通じるものがあります。
 そのプロセスは次の4つの基本的な操作から成り立っています。まず一つは「投影」と呼ばれる操作で、これは自分に関する不都合な事柄を他の人に与えてしまうことを言います。2番目に「取り込み」という操作で、これは他の人に関することを自分のことであると考えてしまうことです。3番目に「同類扱い」ですが、これは多様性があるにも関わらず、部分的に似ているということで同じものとみなしてしまうことです。最後に「現実否認」と呼ばれる操作ですが、見たくない現実とか知りたくない事実を認めないということです。
 これらの4つの操作は全て、客観的な視点というものを持たないので、現実の多様な姿、ニュアンスといったものを認識不可能にさせてしまうのです。つまり、黒か白かどちらか一方しかないという状態で、全ての判断は、例えば、善良なものか悪辣なもの、また善であるか悪であるか、正しいか間違っているかのどちらかである、というような極端な二元論に陥ってしまいます。こうして狂信的なファナティズムが生まれてくることになります。逆説的な立場から極端な立場へと予測不可能な形で態度を転換するという事態が起こり得るのです。
 従って、このような論理においては「差異」、つまり「違い」ということに対して意味を与えることができません。つまり、世界には自分と同類の者か、よそ者しか存在シないと言うわけです。このような考え方しか持たない集団においては、同類として同じ集団に属さない者はよそ者でしかあり得ず、従って理解不可能なものであり、潜在的に危険なものである、つまりは滅ぼすべき敵対者として現れるわけです。ここでは「他者」、つまり違ってはいるけれども、全くよそ者ではない、というような存在はあり得ないということになってくるのです。
 その結果このような集団にとっては、自分たちのグループに属さない外部の者に対して、公正であったり同情を持ったりするということは全く考えられない、ということになるわけです。

第二の論理

 これまでのセクト的集団に特有の論理形態である第一の論理の構造を見てきたわけですが、今度はもう一つの論理形態である第二の論理についてお話ししたいと思います。この論理形態をもつ集団とは、先ほど述べました存在に対する3つの問いの中でも「私はどこから来たのか」そして「私はどこへ行くのか」という2つの問題に自覚的であるような集団のことを指しています。つまり、直接的な「今ここ」という私たち自身の存在を超えたところにその関心を向けているわけです。第一番目の問い、「私はどこから来たのか」という問いかけは、突き詰めて考えてみると、私たちの暮らしている社会の基盤そのものはどこにあるのか、ということにつながっていくのです。例えば、ある部族がトーテムポールを立てて、自分たちに共通の神話的祖先を祭ることがありますが、そのことによって実は、その部族の構成員はみんな同じ血でつながっているという友愛精神をもち、権利において平等であることを意識し、そしてその部族に属しているがゆえに自由であるという意識をもつようになるわけです。結局はこういったことがデモクラシーであるとか人権といったものを可能にしている要素であるのです。
 今述べたことからわかりますように、このような思考方法は結局、私たちが現実の中で出会う不確かさ、偶然性といったものを超えたところを基準にしているわけですから、私たち個々人の主観性に惑わされない、しっかりとした判断基準を生み出すのです。
 ですからこの第二の論理は先ほど第一の論理のように「類似性」というものを追求しているのではなく、様々な「違い」に対して意味を与え、理念的で抽象的な概念枠に常に照らし合わせている、そういった思考方法のうえに成り立っているのです。
 これこそジャック・ラカンによって示された「象徴的な言語」という思考法法と通じるものがあります。その「象徴的な言語」という概念が明かにするのは次のようなことです。つまり、言葉というものはもはや現実を直接的な仕方で表すような単なるイメージではない、ということです。そうではなくて、言葉というのは「差異(違い)」とか「ずれ」というものを含みながら、それを媒介として現実に結び付いていくような働きを持っているということです。
 このような私たちは、現実世界で出会う直接的なもの以外にも、照らし合わせればならない基準を持っている。こう考えたとき、先ほどの第3番目の問い、「私は誰なのか?」という問いに対しても、自ずとその答えは変わってくるはずです。いうなれば、人はもはや「今ここ」の直接的な「私」(Moi=モワ)*1、現実世界と直接的にした関われない自己閉鎖的な「私」(Moi)という呪縛から解き放たれて、いかなる現実世界にも還元することができないある種超越的な「私」(Je=ジュ)を見いだすことになるわけです。この超越的な「私」(Je)という概念はあらゆる宗教や哲学が持っているものであって、どんな描写を持ってしても語り尽くせない広がりを持った「私」(Je)であるわけです。
 この現実世界の外側にある基準、そして超越的な「私」(Je)という要素は、第二の論理において欠かせないものです。この論理において行われるプロセスを、フロイトは意識的機能を特徴づけるものとして位置付けているのですが、それは次の4つの操作によって行われます。一つ目は「遠ざけること」、二つ目は「近づけること」で、これらは対象を把握するためにそれに対して好ましい距離を保つことです。次に「統合」という操作で、異なる段階にあるものを同一のカテゴリーとして共有するということです。4番目に「否定」です。この否定というのは理性的に否定することによって物事を理解しようとする態度です。
 ここで重要なことは、このような形の論理においてのみ、いわゆる「他者」という存在、つまり自分とは異なった考え方や世界観を持っているけれども対等の立場にある存在、が可能になるのです。なぜならそこでは自己と他者は、個々人のレベルを越えた共通の源から発せられる友愛精神ともいうべき絆によって結ばれるからです。

二つの論理形態の有用性

 以上のように私たちは2通りの論理の特徴を見てきたわけですが、第1の論理、つまり無意識の領域で行われる論理は、実は私たちが日常的によく使っているものです。例えば、既に知っている物事に対して、私たちは自動的にこのような無意識の反応をしてしまうものです。こういった直接的な反応の仕方はそれ自体は有用なもので、また主体の意識を分析するという意味においても注目に値するものですが、しかし、個々の自分という直接性から抜け出すためには、こういった論理は有害でもあり、不適切でもあります。さらに言えば、その中に閉じこもってしまうようになると非常に危険な事態に発展してしまうのです。
 これに対して、第2の論理ですが、それはジャック・ラカンの言う「鏡像段階」*2というレベルにおいて現れてくるものです。このような論理形態こそ人間に特有のものであり、人間と動物をいわば分け隔てるものであります。というのも動物は一歩距離をおいて客観的に物事を見ることはできませんし、真の意味において「意識的である」ということもできないからです。
 つまり、人間は意識的であればあるほど人間性を持ち、人間らしくなるのです。例えば、人は「欲望」という原初的な欲動を「願望」という形に変換して意識的であろうとします。また、「〜しなければならない」といった非人称的な命令(例えば超自我の命令)を、「私は〜しなければならない」というような主体的、意識的な形に変換しようとします。
 哲学や宗教及び科学というものはこのような第2の論理を広く用いているわけです。しかしそれに対して、全体主義的セクト的集団はもっぱら第1の論理、無意識の論理に基づいているのです。
 このことについて、さらにもう少しご説明いたしましょう。

つながりの欠如

 さて、まず「つながりの欠如」ということからお話ししたいと思います。ここで、「つながり」というのはどういうつながりであるのかと申しますと、例えば家族とのつながり、あるいは政治のレベルでのつながり、また国家、社会、文化、言語共同体、また宗教的なレベルでのつながり、そういった様々なものとつながりながら我々は生きているわけです。しかし、時に、ある人がそれらとのつながりを失ってしまう、というような事態が起きることがあります。その理由として、例えばそれらと満足のいくつながりを持てなかったとか、あるいは、思うようにうまくいかない困難な状況に直面したとか、様々な理由が考えられます。

 そしてそのような困難な状況に直面した人々は多かれ少なかれ、絶望して自分の持っていた理想というものが打ち砕かれてしまうわけです。また、そのような理想が今度は、何の助けもないまま、自分を脅かすようになると思えてくることもあります。こうした人々は例えば、死の向こう側にある理想というようなものに対しても、望みを持てなくなるわけです。つまり、このような人たちは自分自身の直接的なあり方を越えて、自分を外に開いていくということに自信を失ってしまう、という事態に陥ってしまうのです。

 全体主義的セクト的集団が標的にするのは、こういった何らかの「つながり」において困難な状況に陥っている人々なのです。この「つながり」というのは、いわばその人が何を大切にしているか、ということを映し出す鏡のようなものですので、彼らはそこにつけ込んで、誘惑し、その人たちの失ってしまった理想がいかに大切であるかを説くのです。そして自分たちの集団の助けを借りれば、「あなたのその理想はきっと実現されますよ」と主張するわけです。また、「あなたが今感じている不安はもっともなことですよ」と言う一方でその不安を増大させながら、それを解決するための秘訣をこの集団は持っているんだと説得していくのです。
 そして、新しくメンバーになった者はただ黙って、その集団が持っている秘技なり力なりの修得に励まなければならないのです。彼はそのうちに、自分の目の前に輝かしい道が開けたと思うようになり、いい知れない即時的な幸福感で満たされて、自ら進んであらゆる疑いの心を捨てていきます。彼らはこのような集団の中にいることで、自分は理解されている、また守られているのだと感じていくのです。

第1の論理の閉塞性

 このように初めから、非常に巧妙なやり方で、一人の人間がセクト的集団に引き込まれていくわけですが、その課程には次のようなことが起こっているのです。つまりその人が持っている、自分を超えたものとの「つながり」の意識であるとか、その人の目指す理想の意識といったものが、いつのまにか単なる表象、もしくはイメージといったものにすり替えられてしまう、ということなのです。こうした実態に落ちいてしまいますと、そのときから既に、彼は自分の存在のこちら側と向こう側、つまり、自分が生まれる前のこと、そして死んでからのことについても、自分はもはや知っているし、そのイメージを完全に思い描くことができる、と主張するようになってしまうのです。
 セクトのメンバーは「自分の力でこのような探求を行っている」と思っているのですが、実際は、セクト的集団が自らの権威でそれらの知識を身につけさせているだけであって、それはいわば知的な詐欺であるわけです。集団の中では疑問を抱くことが禁止されている、というのもそのことを如実に物語っています。メンバーは、権威を持った指導者に「こうしなさい」と決められた命令にただ従っているだけなのです。このようにしてメンバーになった者は先ほど述べた第1の論理に引きずり込まれ、閉じ込められてしまうのです。この論理は、常に無意識的な領域で行われるのですが、メンバーは、自分がマインドコントロールされているということに決して気づくことはありません。

マインドコントロール

 次にマインドコントロールについてお話ししたいと思います。あらゆるセクト的集団は、共通して先ほどの第1の論理のプロセスの中に信者を閉じこめ、心理的に後退させようとするのですが、閉じこめられた信者はいわば同類の者だけで集まった城塞の中にいるようなもので、彼らは城の回りを敵に囲まれている、と感じるのです。そこでは「他者」という存在はなくて、よそ者はイコール敵としかみなされません。
 そして、布教活動を義務づけることによって、新しいメンバーを獲得し、そこから自分たちの信仰の正しさを確信し、またそれによって敵の悪どさをも確信するわけです。
 同時にセクト的集団は、それ自体閉鎖的な集団ですから、信者から家族や文化、あるいは国家といった人間としての「自然なつながり」を奪い去ってしまい、そのかわりに彼らの固有の価値観を植え込みます。そのことによって信者が持っていたかつての環境は断ち切られ、外の世界から遮断されてしまうのです。
 またここにおいては言語も大きな問題となります。各セクト的集団はそれぞれに特有の言語空間を持っていて、それが信者にとって共通の言語となるのですが、それらの言葉は私たちが広く使っているようなものではなくて、信者にだけしか分からない堂々めぐりの定義で成り立っているような言語空間なのです。彼らの使う言葉は単なるイメージであり、もはや象徴的な価値を失っていきます。イメージでしかないそのような言葉は、現実を包み隠してしまいます。そして、現実にとって代わるような別の世界を作り上げるわけです。
 さらに信者は常に、急いでしなければならない仕事をたくさん積み上げられて、猛烈な忙しさを強いられます。そのうえ、集団の中で雑居状態で生活しているので、一人で自分を見つめたり、自分自身をとりまいているものに対して距離を置いて見つめることができないのです。メンバーは延々と単調な作業を繰り返すうちに、例えば、うんざりするような読書を続けたり、教義書を何度も暗唱したりしているうちに、一種の催眠状態に陥り、自らの人格を破壊していくことになるのです。
 また精神的な側面においてだけではなく、肉体的な側面においてもそれは指摘することができます。例えば、極端な節食や、睡眠不足が続くとか、過度の肉体的鍛練などが、人格破壊に大きな影響を及ぼすのです。

結論

 最後に結論を述べてみたいと思いますが、これまで見てきましたようにセクト的集団は、個人や社会、国家に対して強力な破壊力、または腐敗させる力をもっていて、この力をあなどってはいけません。しかし、一方でセクト的集団の違法な活動に対して何らかの形で戦わなければならないにしても、言論の自由というものを尊重しなければならないのです。それゆえに、少なくとも彼らが自分たちの権限内で活動している限りは、私たちは信仰というものの領域、もしくは宗教団体や市民団体というものの領域に威圧的に介入していくことはできないのです。
 だからこそ、最も賢明な対処の仕方としてはおそらく、セクト的な現象をしっかりと分析して、それを多くの人に伝えることが一番重要なのではないかと思われます。

*1 フランス語における「モア」(Moi)と「ジュ」(Je)の違いについて。フランス人は「モア」と「ジュ」の違いがはっきり分かるんですけど、日本語ではその違いがありませんのでもう少し説明してください。
非常に簡単な表現を用いますと、「モア」というのは、誰かに自分を紹介するために名刺に書いて表現できるような種類の「私」であります。また「ジュ」というのは私自身の「精神性」のことであり、これは名刺に書き込めるものではありません。

*2「鏡像段階」は幼児の発達段階の一つを言いますが、これはだいたい生後18カ月頃を指しています。この頃に幼児は鏡の中に自分が両親と共に映っているのを見ます。そして幼児は鏡に映る自分自身が、両親と同等の立場である「誰か」であると認識するのです。つまり誰か別の人間であると理解してしまいます。このときに、自分自身を対象化した幼児の中に「ジュ」(私)という意識が芽生えるのです。この段階までは、幼児は自分のことを話すときには第3人称で話します。例えば自分のことを「〜ちゃん」と呼ぶのですが、まさしくこの鏡像段階で、幼児は自分のことを初めて「ぼくは」(ジュ)として語りだすわけです。日本の子供も同じであると思いますが、この頃から何につけても「いや」ということをいい始めるのです。というのも、その子は第2次過程、つまり「否定」という段階へと到達したからです。

セクト的集団の論理資料

 1)グル(セクト的集団指導者)の典型的な心理的プロフィール

 あらゆる全体主義的セクト的集団の指導者を彼らの客観的な略歴、実際の行動、著作物から研究した結果、さまざまな違いは認められたにせよ、常にいくつかの特徴があげられる。その特徴は、精神医学の領域で指摘される「ヒステリー性境界状態」(精神病と神経病の境界にある状態)において見いだされる。

 主要な特徴は以下の通りである

 広範囲にわたってこれらの指導者たちは、ほとんどもっぱら「第1次操作」によるプロセスに従って、作動している。第1次操作とは「投影」(他人が〜である)、「取り込み」(私が〜であって、他人が〜ではない)、「同類扱い」(ある部分の類似だけで全く同じものであると信じ込むこと)、「現実否認」(私はそれを見たくないし、知りたくない)という4種類の操作である。
 これらのプロセスはひたすら「類似」という現象を追求する。「類似」においては、あらゆる差異は現実否認によって消し去られる。また、似ていること、同じであることを拒否するものも常に現実否認によって排除される。

 これらの指導者たちが生活の中で広く優先的に行うことは、「行動する」そして「感じる」ということである。たとえ彼らが自らのことを神秘主義者であるとか、感傷的理想主義者であるとかを主張したとしても、彼らは決してそうではなく、実際のところは物質主義者であり、享楽家である。倫理的なあらゆることは彼らにとっていかなる現実的な意味をもたない。

 彼らは権力や支配に限りなく貪欲である。
 彼らは誇大妄想狂、虚言症であり、そして自ら誘惑的な嘘を本当であると信じ込んでしまう最初の人間であり、そのことが自分自身に厚顔さと、ある種のカリスマ性を与えているのである。

 かなり多くの場合に、彼らの誘惑の欲求は物質的な享楽の欲望に結びついており、それらは彼らの表面的な嘘の背後に巧妙に隠された性的異常となって現れる。

 彼らはまた、注目を浴びたい、脚光を浴びたいという押さえがたい願望、広い意味での露出性をもっている。それは言い換えれば、衣服、儀式や住居(様々な「神殿」、城、邸宅)への関心であって、セクト的集団の(そして指導者の)富を野心的に拡大するという意図に基づいている。
 そして最後に彼らは扇動的であるという特徴をもっている。

 2)マインドコントロール

 マインドコントロールとは、第1過程の原理である直接性と類似性を自分のために用いることで、一人の人間をそこに閉じ込め、自分の思うように彼を導くことが目的である。

 類似性

・あなたは私たちと同じであり、同じ関心を持ち、同じ理想を持っている、と信じ込ませること。
・あなたのことを私たちは理解している、またあなたがなりたい理想の人間像に対して、私たちは賛成していると信じ込ませること。
・現実の多様性を部分的なイメージの単純性にすり替えること。
・人工的なイメージで現実を遮断し、すり替えること。

 直接性

・人を直接性の中に閉じ込め、距離を置いて据えることを不可能にすること。従っていかなる質問も不可能となる。

 直接性は次のことと関わっている

・空間:集団における雑居性
・時間:恒常的な緊急性、同じことの繰り返し(読書、詩、礼拝、その他)
・時空:現実的、人工的な過度の忙しさ

 用いられる論理はもっぱら第1の操作でありプロセスである

・一時的な類似性によって同類扱いにすること
・世界を絶対的な善(集団と指導者)と絶対的な悪(外部の者)に分けるために同一化の作業を行う(投影と取り込み)
・スケープゴートを作り出す(うまくいかないことは全て、外部かもしくは「裏切り者」の責任にする)
・あらゆる反論及び不都合なことを消すために現実否認を用いる。

この講演文はマックス・ブーデリック氏と全国霊感商法対策弁護士連絡会の山口弁護士の許可を得て掲載しています。



 トップページ




inserted by FC2 system