元メンバーの証言


元エホバの証人の証言
7年間の信仰歴・主婦


 私は元「エホバの証人」です。平凡な主婦です。自衛官である夫と結婚して家庭をもった後、「ものみの塔」の研究生となり、その間二人の子供を育てながら、「エホバの証人」街道まっしぐらと進みました。
その「ものみの塔」を脱会してから5年が過ぎました。この5年間はとても充実した時であり、回復の時もありました。今でも組織にいた約7年間の年月が、まるで夢のようです。
私の場合は「保護」の形で説得されたので、救出期間も短く早い脱会だったのです。しかし脱会してから本当の戦いが始まりました。それはやめたというだけで、他の何も変わっていない自分なのだ、自分がいったい何物であるか、今まで何をしていたのだろうか、という葛藤とジレンマでした。

 カルトに入る前にも友をなくし、カルトをやめることでその仲間たちであるたくさんの友をなくすという喪失、命を懸けるまでにしんじていたものの崩れ去った等、払った犠牲が多くありすぎて感情が押さえ切れない時もありました。子供たちに負わせた心理的身体的な虐待も、親として償わなくてはならない課題の一つでした。「あなたの家庭生活を幸福にする」という「ものみの塔」のアピールとは裏腹に家庭は崩壊寸前煮、子供たち文字通りムチで打たれ大きな痛手をこうむったのです。子供の回復という店は、本当に心配しました。学校の先生にも事情を話し理解してもらうようにいち早く努めたつもりです。

 脱会してから一番格闘し今でも格闘が続いているのは、以前の自分ではない新しい自分との付き合い方です。今まで律法でがんじがらめにされていたのでいろいろなことに興味がある反面、これもあれもよくないことだとブレーキをかける自分、様々な季節ごとの行事とお祝いごと宗教行事に関しては、もう何をしてもよいのだが、なかなかできないことが多くありました。たとえそれができたとしても心から喜んでできないのです。テレビドラマや映画を楽しむことさえ罪を犯しているような(相応しくない行動)気がしたものです。日曜日に家族と一緒に楽しむことも同様で、心から生活を楽しむことも抵抗がありました。

 家族や周りの人たちは、そんな私を見て( プロテスタントの教会で洗礼を受けたこともあって)エホバの証人とクリスチャンは同じだという見方さえしました。私の気持ちとしては、全く違うのだが同じ行動に見えたのでしょう。無理もないことです。カルトを止めたからといっても、実質そんなにすぐに変われるはずもありません。そんな家族に対しても理解してもらえない孤独感がありました。いや憤りさえありました。人として素直にごく正直に生きたいと切望しながらも心の痛みのゆえに堅くかまえてしまい、更に自分を守るために負けん気をおこしていた日々がありました。特に宗教の話や「ものみの塔」の話しになると、どこかよいところを見つけ出し、正しい点おかしくない点を強調したりしていました。確かに正しい点はよいと言うべきですが、周囲の人々をさげすむようなことがなかった訳でもありません。

 そんな中で何とか同じような人たちと交流し、少しでも気持ちが慰められるならとも思いました。なかなか「ものみの塔」からの脱会者は周りにはいませんでした。しかし少数の人たちと交流があり、本当に昔からの友と感じる親近感がありました。その中には傷が深く脱会後にもうすべてを忘れたいので、会いたくないという人もいました。そんな中でキリスト教会内の友人たちは以前の喪失を忘れさせてくれるほどの慰めを与えてくれました。

 さて宗教行事に関しては、本当に受け入れがたいものでありました。「大いなるバビロン」と呼ばれる最も汚れたものというイメージは、心の奥底に刻まれて仏壇など見るのも嫌なのです。それに至る理由はあるのです。ただ「ものみの塔」の教理だけでそうなった訳ではないのです。そこに人間関係の感情のもつれが傷となってあるのだと思います。証人時代、祖父や義父の葬儀のときに焼香ができないというものだったのですが、針のむしろに座らされたような経験があります。しかし年月が経つごとに、少しづつ客観的に見られるようになってきたと思います。

 それから社会的な関わりも興味深いものがありました。「エホバの証人」はごく普通に家庭人としていて、私のように主婦あるいは母親であったりします。しかしほとんど社会との接点はなかったのでやめてからはまるで社会人一年生のようなものでした。「ものみの塔」で約七年間学んだ「知識」は一見すると素晴らしいものに感じるが、、理想主義であり、実際には何の役にも立たないものであることが、証明されたことになります。したがって平凡ではあるが、学校のPTA活動、ボランティア活動など興味深くまるで外国旅行をしているようなものでした。見るもの聞くものがどれも新鮮で感動的でした。証人時代は「エホバの証人」の王国会館、伝道(奉仕)、家という三点の世界で視野がとても狭かったのです。

 組織をやめた時は、その視野の狭さで困った事もありました。一日の時間をどう過ごしたら良いか解らなかったのです。毎日毎日伝道に費やしていた習慣のためにどうも体と心が落い着かないのです。伝道に行っていた時間帯がポッカリと空くのです。何をして良いのかも考えつかない、悩んだ末にじんぶん自分が証人時代に信じていた「地上の楽園」を思い出し、そこでようと思っていたことをやってみることにしました。長続きはしなかったがそうしているうちに(数ヶ月)少しづつ自分の世界も広がって、色々なことに挑戦してみたくなってきました。この世は「サタンの世」だとしんじていたのに、なんて素晴らしい世界だろうと思えるようになってきたものこのころかもしれません。
 人間関係、人付き合いについても苦労しました、自分中心で他人をいとも簡単に裁いてしまうのです。正しいのは私は、間違いは他人というぐあいです。これも社会勉強不足なのでしょう。他人の言葉に一喜一憂、姿・形は大人でも心は未熟なままでした。これは「ものみの塔」の影響家、自分の元々の姿かどうか解りません。

 「 エホバの証人」 という破壊的カルトから脱出して、悩み、かっとうし、涙し、苦しんだことは、私にとって素晴らしい人生経験だったことは間違いないのです。これからも流動的な自分が楽しみであります。数年後はまた違うものの見方で人生を楽しむかもしれません。



元エホバの証人の証言
ジャーン・セトナーさんの証し

 

私の家族は100年間にわたって、エホバの証人との関わりを持っているという背景です。私は生まれた時に両親はどのようにしても、きちんとエホバの証人にならせようと思いまして、私に訓練と教えを与えてくれました。私は結果的に四代目のエホバの証人ということになりました。最初に両親が教えたことは、「聖書は神の言葉である」ということでした。ところが、その時にもう一つのことを教えました。その聖書は「ものみの塔」の出版物を通してか、わかりません。この「ものみの塔」の組織に聞き従うということなくしては絶対に神様を喜ばせたり、神様にう受入られるということがないのだと教われました。

 私が教わったのは、この「ものみの塔」の教会だけが唯一の真の神の建てられた組織であるということです。この神様が用いている唯一のチャネルがこの「ものみの塔」の組織であって、その他の人たちはすべて心理を持っていないサタンに属するものだと教われました。私は神様を喜ばせたい、そしてこの永遠の命をむかえたいと熱心にそう思っていましたので、両親言われた通りのことをとにかくすることによって、それで得られるのだと確信して、行動してきました。

 神という方は父であるけれども、その名前は「エホバ」打と両親から教われました。またイエスキリストという方は神が最初にを造りになった被造物であって、あの天使長ミカエルだたと教われました。そして両親は三位一体を憎みなさいと教えました。私は天国に行くということは教われませんでした。地上にパラダイス天国ができるから、あなたはそこに住むのですと教えられました。
 神様に喜ばれるためには、まず私はエホバの証人としてバプテスマを受けなければならない、その次に家から、家へ伝道をしなければならない、そして一週間のうち5回集会に出席しなければなりませんでした。私は高校を卒業知たときに大学に行きたいという時でしたけれども、「大学に行っても、何も意味もない、もうすぐ世の終わりが来るから、その終わりに備えなければいけない、大学に行って、学んでもそんなものは間に合わない」というふに教われました。それで私は高校を卒業した時に三つの進むべき道、可能性がありました。まず、第一この組織の中でフルタイムでにゅーよーくにある本部で働くか、第二宣教師として外国で働くか、第三は自分の地域の会衆の中で一ヶ月、100時間以上の時間を伝道のために捧げるという形のフルタイムで働くかということです。このような三つのフルタイムで働く可能性があったわけですが、もしそうするなば、自分が神様を愛しているという証拠になるわけです。それをすれば神様はよろしいと言ってくれるわけづす。
そこで私は「ものみの塔」のニューヨークにある本部で働くことに決めました。そして私は本部に行ったのですが、それまで私は一度もこの組織は神様の唯一の組織であると疑ったことがありませんでした。

 私の父は当時地域のその会衆の一番上の主宰監督になっていました。そしてその父の元で、私は訓練を受けてきました。父はこの会衆を本当に愛さなければならないといい、会衆の中に愛があるのだと教えていましたし、私もそう感じていました。それで、会衆の中には本当に愛があると思っていたのですが、本部に行きますと、その本部は本当は聖霊がその人たちにくだっていて、唯一の素晴らしい人々だと信じていたのですけれども、実はその本部の中では愛を見出すことができなかったのです。それで、疑いがだんだん出てきて、教わった通りに本当にこの組織というものが真理なのだろうか、どうなのだろうかと、思えてきました。この組織には愛がなかったということに加えて、実は教えが変わっていくということがありました。例えば例えば、ローマ人への手紙13章のところに「上にある権威にしたがいなさい」という御言葉がありますが、この権威から出るいろいろな言葉のなかみが数年前に教えてくれたこと、これが変わってしまうということを経験しました。私が教わったこの真理というものはどうも変わってしまう。どうして変わってしまうのだろうか、誰が変えているのだろうかという疑問が起こってきました。ところがその時に同時に思ったことは、もしこのエホバの証人が教えていることが真理でないのなら、私はどこに行って、生きることができるだろうか。どこにも行くところがないのではないか。というのはほかの宗教はみな悪魔のものだと教わっているわけですから。こういういろんな疑問に対してどこかに回答があるはずだということで、求めはじめたのです。

 そんな時に私は一人の男性と会いました。その人は将来、私の夫になる人でしたが、彼もまたある疑問をもち始めていた人でした。組織はアメリカの国を三つの地域に分けていましたが、そのうちの一つの地域の人々の質問に答えるという仕事があるのですが、私の夫になる人が、その仕事をしていました。人々から質問をされてくることの一つに、ちょうど学校の始まる時期になると子供達が天然痘の予防接種を受けることは、神の律法に反するかどうか、という質問がありました。その当時のエホバの証人は、「ものみの塔」ではこの種痘の中には血液が入っているのだとし、血液が入っているので、種痘をしてはいけないのだと教えていました。私は子供のころは学校に入るためには入学の許可の一つの条件として天然痘の予防接種をしているという印が必要でした。私の両親は私を学校に入れなければならないので、印をつけてくれるお医者さんに私を連れて行きました。それは本当の医者ではなく、予防接種したように見せかけるものでした。そして偽の証明書を書いてもらいました。

 このことをみなさんはどう考えますか。これは「ウソ」ということではないでしょうか。神様の律法に反することではないでしょうか。もちろん、偽りは神の律法に反することです。私の両親は本当の神様の律法を犯して、私を入学させました。私の夫になる人はそういう質問をたくさん受けるので、天然痘の予防接種の中には本当に血液が入っているのだろうかと研究をはじめました。ところが研究所に行って、教えてもらった結果は、血液は入っていないというもの出した。それで「ものみの塔」の会長のところに行き、調べた結果予防接種の中に血液は入っていないことを伝えました。そして1952年に種痘はしてもよいということに組織は変更しました。

 結果的に予防接種をしてもよいことになりましたが、同時に輸血禁止ということが前面に出てきました。しかし、私の夫は予防接種を禁止することに意味がないように、輸血を禁止することもおかしな話だと思うようになりました。それで、彼はうえの人にそのことを伝えたところ、彼らは「他のメンバーにあなたの考えを伝えては行けない」と言いました。その当時「ものみの塔」の会長が彼に言いました。「もしあなたが考えていることを他のメンバーに伝えれば、あなたを排斥処分にする」と宣告しました。エホバの証人にとって排斥処分を受けるということは、仲間から一切口をきいてもらえないし、関係が完全に断絶されるということなのです。自分の家族でも関係が持てなくなります。

 私は4年間、夫となる人は8年間本部で働き、そののち私たちは結婚し、本部から出ることになりました。私たちは疑いをもっていましたが、組織の言うことを依然と信じていました。しかし、神様は私たちに対して他のご計画をもっていたようでした。夫を通してエホバの証人になっていた人達がきて、彼らの「孫に輸血が必要なのですが、どうしたらいいでしょうか」と訪ねてきました。夫は「もし私の子供であったら、お医者さんに決断させます」と答えました。彼はこの言葉によって、真理委員会にかけられ、排斥されました。

 その当時、夫は私と一緒に働き、そこに住んでいました。ところが、彼は排斥されたので、私の父は「あなたたちはこれから、どうするのか」と聞きました。「私たちは多くの疑問をもっているし、排斥されたから、二度と組織には戻らない」と答えました。父は「そういうことならば、すぐにこの農場や家から出て行きなさい」と言いました。それで、夫は私を見つめ「君はどうする」と聞いたので、「私は行きます」と答えました。それで私たちは家を出ることになりましたが、それは今から、35年前のことでした。

それからどうなったでしょうか。私たちは彼の両親のところに行きましたが、彼らはドアも開けてはくれませんでした。彼の姉妹に電話をしましたが、彼女は電話をすぐに切ってしまいました。彼の兄弟に電話をしました。彼はエホバの証人でしたが、彼は私たちを受け入れ、私の夫に仕事を与えてくれましたから、私たちはカリフォルニアへ行きました。その土地について何も分かりませんでしたが、ただエホバの証人の組織には戻らないという一心で、カリフォルニアに行きました。

 その時、私はまだ聖書は神様の言葉であると信じていましたので、とにかく聖書を読み続けました。それと同時に「ものみの塔」の過去の出版物を調べはじめました。そして、分かったことは「ものみの塔」が世の終わりについて何度も間違った予言をしているということでした。1874年にイエス様はこの世に来られると予言しましたが、実際には来ませんでした。その後、1914年に来ると言いました。また、1918年にも来ると。1925年にも、1941年。ところが、私たちはそのことについて一言も知らされていませんでした。「ものみの塔」は毎年、自分たちの歴史を書き直していました。祖父や父の時代に彼らはこの世の終わりが来ると人々に告げていました。その後、私の時代にももうすぐその世の終わりが来ると同じ人々に知らせましたが、彼らは「以前あなたの祖父や父から、世の終わりについての予言を聞いた」と言いました。しかし、私は「いいえ、「ものみの塔」が予言するのはこれが初めてです」と答えました。すると彼らは「あなたの祖父や父に聞いてみなさい」と言いました。そして私が父に尋ねると彼は「いいえ「ものみの塔」はそんな予言はしていない」と答えましたので、それを私は信じました。

 私たちは「ものみの塔」を出てから、組織が偽の予言をしてきたことが分かりました。そしてある日、私たちは聖書の申命記の18章21節と22節によって、私たちはエホバの証人は本当に偽りの組織とはっきり理解できました。申命記は『あなたは心の中で、どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか」と言うであろう。その予言者が主の御名によって語って、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。予言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。』と書いています。

 エホバの証人の組織は神様に関係のない組織ですから、私たちは恐れることはないと分かりました。もし私たちがこの「ものみの塔」に賛成しないのであれば、もうハルマゲドンに対する恐れというものも無くなっていくのです。もしエホバの証人が偽りの予言者であるというのであるならば、エホバの証人が教えている他のこと、イエス様がどんな方か、その他の教理をどうして信じることができるでしょうか。そこで私たちは、聖書を再び読み直しました。いったいイエス様はどんな方なんだろうか、ということを聖書の中から研究をはじめました。実はその当時、エホバの証人をやめる人たちはほとんどいませんでしたので、教会側は私たちを招いてくれ、どのようにしてエホバの証人を抜けてきたのか、証しをさせてくれました。私たちはエホバの証人をやめましたけれども、それで私たちのストーリーが終わった訳ではありません。ある時、牧師が「このイエス様がエホバなのだよ」と教えてくれました。私はその牧師に「エホバはお父さんです。イエスというのは子供です。イエスがエホバになるのはありえません。」と言いました。ところが私の夫はそれを聞いて、「そうだ分かった」と言い、その教えに大きな感動を覚えていました。実は旧約  
聖書の中に出てくるエホバは神であり、創造者であり、光であり、そのようなお方なのですけれども、新約聖書の中でもイエス様という方は、創造者であり、光であり、神である、と教えています。そこで、私たちはイエス様は神なのだということがだんだん分かってきましたけれど、まだ個人的な関係を通してイエス様を知るというのには至りませんでした。聖書を勉強しながら、私たちは罪を許されるためにイエス様を信じなければならないと分かってきました。そこで、私は祈りを通して、イエス様は救い主であると受け入れる決心をしました。

 神様はカリフォルニアで、私たちの歩みをいろいろな面で祝福しました。そしてその後、私たちはペンシルバニアに引っ越しました。私たちは聖書を読み続け、信仰を持ち続けていく中で神様は奇跡を行ってくださるのを何度も経験しました。私たちはいろいろな働きによって、多くのエホバの証人に話をしましたし、彼らはその組織から離れることができました。そしてたくさんの人がイエス様を信じました。私のお母さんは私の家の近くに住んでいます。たまに買い物をするときに彼女に会いますが、絶対に私に話しかけません。しかし私は母を愛しているし、彼女のためにいつも祈っています。

 「ものみの塔」の組織というのは、自分たちは「真理」を持っていると宣言します。自分たちだけが、唯一の救いにいたる道を持っていると確信しています。この組織以外真理を持っている人達がいないと信じています。しかし今、私はこのことが間違っていると分かっているので、私の残りの生涯を使ってできるかぎり多くのエホバの証人にこれは間違っていると教えたいのです。そして、本当の聖書とイエス様も伝えたいと思います。



 元オウム真理教の証言
20代男性・大学生(96年当時)
「私と亡き人の間」
4月13日午後、大学のチャペルである式が行われていた。「故Sさん御一家追悼記念式」だ。家に帰ろうとしていた私はその掲示を見たとたん、無意識にチャペルに足が引かれていた。式は既に始まっていた。招待されていなくても誰でも入れるらしい。受付で式のしおりを受け取る。

 そのしおりには、Sさんの大学時代の直筆の文章が載っていた。高校のころから積極的にボランティアなどもしていたらしい。文章からは人生に対する真剣さが感じられる。在学中にTさんとボランティアで知り合ったのは有名な話だ。略歴の最後に「89年11月4日未明、オウム真理教幹部に殺害される」とある。

 私は大学(偶然にもSさんと同じ大学・学科である)一年のときにオウム真理教に入信、出家した。今は同大学に復学している。こんな私が式にいていいのだろうかとも思ったが、結局、Sさんの両親のスピーチ後、献花まで終えて式を後にした。

 式の間、Sさんの文章を読んでいるとなんともいえない感覚に襲われた。十五年前、彼女は私と同じようにこの大学に通い、同じような授業を受け、真剣に人生に取り組んでいたのだ。そして、私も含めてオウムに入っていた者の多くも真剣に人生に取り組んでいたであろう。

 実行犯とされる中川被告を始め、人を殺したくてオウムに入った者はいないと思う。むしろ、林被告にしろ井上被告にしろ、人を救いたい、と考えてオウムに入った人のほうが多かったに違いない。そういう人達が何の間違いか、多くの人達を殺してしまい、今では彼らも法の裁きによって「殺され」ようとしている。私にしても一歩間違えれば犯罪に加担して今頃獄中にいてもおかしくないのだから、彼らのことも他人事には思えない。

 とにかく、そういうまじめな人たちがSさんのような真面目な人を殺し、Sさんの両親も悲しめば、同じように実行犯の親たちも悲しむ、こう考えているうちに、なんだか涙が出てきてしまった。

 献花の番が回ってくる。Sさんに会ったことはないので親族・知人の方々のような悲しみはない。私が悲しかったのは、そうやって殺し殺されていく中で次々と生まれた数々の悲劇に対してである。私は「天国にいる」Sさんに対して何を祈ったらいいのか分からなかった。Sさんは実行犯が全員死刑になれば喜ぶのだろうか。彼らが死んでもSさんは還らない。死刑になった者の親たちが悲しみに暮れるだけである。

 一体何が悪いのだろうか。あの教祖がすべて悪い、のだろうか。もちろん彼が犯罪の第一人者であることは間違いない。彼が人の命と心を踏みにじったことは許しがたい。聖者どころか悪魔である。だが、彼は生まれたときから悪魔だったのだろうか。目が不自由なのは彼の意志ではない。家が貧しかったのも彼の意志ではない。彼が豊かで目も完全に見えたら、悪魔にならなかったかもしれない。全ては条件によって変化する。そして人生は本来理不尽なものであり、この不条理を直視して超える教えが宗教であろう。

「怨みは怨みによって果たされず、忍を行じてのみ、よく怨みを解くことを得る。これ不変の真理なり」
(法句経)


 結局、私はSさんに許しを請うことにした。子供を殺してしまった中川被告は「消えてしまいたい」そうである。林被告は法廷で叫んだそうだ。彼らの苦しみも遺族の苦しみも「苦」であることに変わりはない。私は今、社会福祉関係の講義を受けながら仏教を中心とした宗教を勉強している。今は亡きSさんのためにも取り返しのつかないことをしてしまった被告たちのためにも、一日一日を精一杯生きることがせめてもの償いではないかと思う


元オウム真理教の証言
 20代男性・元サマナ

 僕は94年9月にオウムに入会し、94年10月に出家して96年6月25日ごろオウムから逃げ出しました。96年7月にはオウムから逃げた罪悪感によって、森の中で睡眠薬を80錠のみ自殺を実行しましたが、次の日発見され、瀕死のところを助けられ1カ月間精神病院に入院していました。左の手が全然動きませんでしたが、今では少しずつ良くなっています。

 今は、実家からアルバイトに通っています。親とは意見が合いません。感情の波が激しく、ものすごく不安になったりします。薬物のせいだと思いますがイニシエーションで記憶が一部ありません。入信したきっかけは、大学の「インド・ヒマラヤ研究会」というダミーサークルでした。僕は神経質で人と付き合いが苦手でして、精神世界に興味がありました。サークルでは、人の悩みをよく聞いてくれて信頼していました。

 ところが、ある日いきなりオウムの道場に連れて行かれました。ワイドショーなどで有名だったので、「入信はしない」と言いましたが出家者の人達が信頼できたので、まもなく入信しました。また、すばらしい人達が集まっているので麻原さんは世間に誤解されているだけだと思いました。「この世は苦しみである」、「物質文明は悪である」ということに納得できましたし、97年ハルマゲドンは少年マンガ雑誌で読んだことがあり、信じてしまい、出家しました。

 修行やワークは嫌いでしたが、97年にみんな死んでしまうので、97年まで2年ぐらい我慢すれば楽になれると思っていました。死んでも麻原さんがポアしてくれると思っていたからです。飲むイニシエーションでは、アルコールの味がして「インチキじゃないか」と思っていたら、独房で体を弓の字にさせられ、手足を縛られて竹刀でたたかれました。トイレにも行かせてもらえず、床中悲惨でした。
「尊師に帰依するぞ!」と何時間も大声で言わされました。隣の部屋の女性は「もうこんな教団やめます!」と叫んでいました。


 その後、儀式院でイニシエーションを受けてもうろうとしている人に懴悔させたり、お布施させたり、出家するように強く進めたりするワークにつきました。その時、上司の人が「イニシエーションで神秘体験ない人には、ぐるぐる10回転させて座らせたら神秘体験なんてするんだ!つまり、神秘体験なんて、どうでもいいんだ!」と言ったので、怪しい思いましたが95年2月(サリン事件の少し前)だったので「救済のためならどんなことをしてもいい、時間がないんだ」と思っていました。そのころ、ジーヴァカ棟の近くでジーヴァカ正悟師がいつも申し訳なさそうにうつむいてこそこそ歩いていました。態度がこそこそしているので、ピンクの服を着たスパイだと最初思いました。

 サリン事件の後は、大阪で働いてお布施をする財施部に行きましたが、周りの出家者や師の人も、どんどんオウムをやめていきました。最初は「事件はすべてでっちあげだ」と教団は言っていたのに、すべて実行していたので、どうして嘘を言うのだろうと思いました。師の人に相談すると「殺されても真理勝者と縁がついたから、よかったのよ」、「脱会した師や正悟師たちは脱会したふりをしているだけ」、「自分で考えたらいけない」と開き直っていました。

96年の4・5.6月と支部活動に戻りましたが古き良き時代のオウムの温かさは薄れて、殺伐としてきました。狭いマンションで相互監視するので、心も緊張します。極限だといって限界以上のことをさせます。5月6月ではヘラクレスを信徒に5万円で売っていました。秘儀瞑想のイニシエーションは30万円でした。正悟師がくる説法会で3万円で参加できるのを見て「金が無ければ解脱できないな」と思いました。僕のいた支部ではお布施を信徒から集める係の人を「集金マシーン」を呼んでいました。情けなかったです。

 その頃、アーチャリーさんの「上の命令は絶対です」という通達がきてがっかりして逃げました。麻原さんの教義は一見正しいように見えるだけです。

 96年10月に滝本さんやカナリヤの会を知りましたが、脱会した人達にあえてうれしかったです。信じていたものが一切なくなった恐怖や不安を分かってくれます。オウムが正しいものがないと思っていましたが、瞑想でも仏教でもまだまだ多くの道があると教えてもらいカナリヤの会に参加して良かったです。

 林さんや井上さんの真剣な姿に対して麻原さんの態度はがっかりしました。山本まゆみさんや大内早苗さんや松本知子さんの陳述によっても、僕の麻原さんへの信仰はどんどん消えました。今の麻原さんの「だだっ子」の態度でオウムから離れる人が増えると思います。教団が100人まで減ったらハルマゲドン」という予言を現役信者は信じていると思いますが、何も起こらないので考え直してください。彼は「だだっ子」のふりをわざとしているのではありません。僕が気になっていたこと「PSI(ヘッドギア)はつけて1週間寝ていれば解脱するはずだったのに、1年2年つけても解脱しない」、「予言が当たらない教団は拡大しないし95・96年の大洪水で日本の3分の2が沈むはずなのに、大洪水はない」、「96年私が死んでも君たちの奇跡が起こるだろうというのに、サマナに奇跡は起きない」普通では考えられない、とんでもないことを麻原さんはするので、「尊師の深いお考えがあるはず」と思っていましたが、「深い考え」が彼には無いようです。

幼いころからの環境で麻原さんの性格は形成され、サリンまで作って地球を支配しようとしたのでしょうが、考えがマンガのようであり、誰も彼を止められなかったのが残念です。幼いころこらの彼の苦しみを相談する人が側にいたら、教祖にならずに済んだかもしれません。師補、師、正悟師、正大師とどんどん傲慢になっていくのが残念です。グルのクローン化すると口はうまくなるし、人の苦しみも分からなくなるようですね。

 96年1月1日に500人ぐらいのサマナが第6サティアンに集まりました。その時、2・3才の「尊師」の息子に無理山本矢理オウム三唱させました。夜の1時ぐらいで、まだ寝ていたのに無理に起こされて泣いていました。正悟師は喜んでいましたが。

 96年6月にサマナ一人一人にサバイバルセットと地図が配られました。「こんなものでハルマゲドン生き残るつもりなのか?」とおかしく思いました。

 多くの人の心を引き裂いたオウムに属していて、申し訳ないと思っています。



元統一協会員の証言
当時20代女性、2年半の信仰

 1994年5月頃、あるサークル(=統一協会のビデオセンター)で占い講座のイベントがあるというので、会社の後輩に誘われて行くようになり、統一協会とかかわりを持つようになりました。仕事をはじめて6年目で、将来どのようにしていくべきか、また小さい頃から両親が自営業をしていて忙しかったので構ってもらえず、家族との深いつながりがほしかったり、暖かい家庭を持ちたいと思っていました。しかし、自分自身の存在を否定し、でも反対に自分を向上させなければというさまざまな悩みの中にありました。そのような時にこのサークルと出会い、家庭や愛についてビデオを見て勉強し、役に立つ、為になると思ってどんどん話を聞いていきました。途中からは家系図の話をされました。先祖のことや親戚の状態を見て、「絶家になる。あなたが責任感と使命感をもって、家族の中でがんばるために、出家しなければならないが、まずは今もっているお金を全部ささげなさい」と言われ、献金しました。家系図の話をしていく中で、ここが統一協会であることと、文鮮明が再臨のメシヤであると聞きました。この団体のことは全く何も知らなかったので、疑いもなく受け入れました。

 10月初旬に16万人の女性修練会が韓国であり、参加しました。直接文鮮明から話を聞くことと韓国の女性と姉妹結縁を行うことが目的でした。メシヤと言われてもピンときませんでしたが、韓国との暗い過去を乗り越えて、交流をもっていけることはすばらしいと思いました。その後、両親には友達と一緒に住むとウソをついて、統一協会のホームで団体生活をするようになりました。最初の4ケ月間は原理(統一協会の教え)の勉強をし、伝道、経済活動の実践の訓練もしました。それから実践トレーニングという部署に移って仕事を続けながら、ほとんどは伝道活動をしていました。2〜3ケ月毎に宝石、健康展(健康器具展示販売)、絵画、印鑑、着物の展示会があり、友人や会社の人、親を誘いました。「しんぜん会」というボランティア団体の名前で、くつ下、ハンカチなどを訪問販売しました。原理の勉強のために修練会にも何度か参加しました。

 世界平和女性連合にも入会していたので、1995年9月に開かれた3周年記念大会に行き、ブッシュ前大統領夫妻と韓鶴子総裁の講演を聞きました。9〜10月にかけて約1週間、世界平和女性連合主催の訪米ツアーに参加しました。アメリカで有名なクリスチャンの方3人がゲストスピーカーとして話をされました。アメリカの女性と姉妹結縁も行いました。真の家庭について聞いたことや著名人にも受け入れられていると思ったことにより、世界中で活動しているすばらしい団体なんだとますます思うようになっていきました。 仕事と統一協会の活動の両立が苦しくて、活動できないこともありましたが、先祖のため、子孫のため、家族のため、そして神様のためだと思い、やめるわけにはいかず、無理してがんばっていました。その後、青年部に移って活動を続けました。1996年7月から職場が大阪から滋賀に変わり、ホームを出て一人暮らしをすることになりました。一人遠く離れてこれからどうやって活動していこうか、家族にどうやって原理を伝え、受け入れてもらおうかと悩んでいました。

 そんな時、10月初旬に中南米35ケ国に120名ずつ4200名の女性を送らなければならないと文鮮明から指示が来ました。これが私に神から示された道だと思って行くことを決心し、11月初旬から9日間韓国の済州島で修練会に参加し、くじ引きによって任地国も決まりました。それから家族にボランティアに行きたいと話をし、会社の上司にも会社をやめたいと話をしましたが、だめだと言われ、とりあえずウルグアイでの1週間の修練会に内緒で参加しようと思いました。出発当日にそれが家族にわかって、行くことができず、家族と共に話し合いをすることになりました。

 最初は小さい頃の話をしたり、なぜ統一協会に行くようになったかなどを話し合い、その後原理の内容を家族に説明しました。その後、牧師先生方が統一協会の出版物を通して話をして下さいました。言っていることはわかりましたが、統一協会の教えが間違っているとは思わず、教えはすばらしいと約7ケ月間思っていました。伝道や経済活動の教えとの矛盾はずっと感じていましたが、日本の統一協会や幹部のやり方が間違っているのだと思っていました。世界でも受け入れられているし、有名なクリスチャンの人たちにも受け入れられていると信じていたし、また世界各国でボランティア的に活動していると聞いていたし、何よりも私は神様のために頑張っているんだという思いが強くありました。しかし、元統一協会員の方の体験談や本を通して、また聖書の話を聞くことによって、神様に対する考えが間違っていることに気が付きました。伝道も経済活動もウソをついて活動していることは今も昔も変わらないし、神様は何でもできる方なのだから、ウソをつかなくても人間を救うことができるのだとわかり、統一協会の間違いに気が付いていきました。導かれてイエス様にお出会いし、イエス様の十字架により私の罪もゆるされ、神様によって万事を益とされ歩ませていただいていることに感謝しています。


元統一協会員の証言
20代男性、2年半信仰

 93
年の春、一人の男性が青年サークルのアンケートという事で訪問に来ました。その頃は、大学に入り、一人暮らしを始めたということもあり、向上心や好奇心があった時期でしたが、向上心はあっても、何をしたいのか、何をするべきか、将来どうするかということがわからないという時期でもありました。そのため、人生や社会、あるいは人間の根本的な問題について学べるというサークルの内容に強くひかれ入会するようになりました。入会して5カ月たった時、初めて統一協会の名を明かされました。そのときは原理(統一協会の教え)を聞いた後でもあったので、「自分の持っていたイメージとは違い、素晴らしい真理を待った団体だったのだ」と思い、入信しました。

 統一協会での活動は、学生伝道、万物復帰(経済活動=物売り)が中心でした。どの活動にしても、学業の時間をさいて行っていましたが、この道が唯一の救いの道と信じていたので、他の何を犠牲にしても行わなければならないという思いで活動していました。献金に関しては、学生で経済力はありませんでしたが、献金はしなければならないという強迫観念があったので、少ないながらも親からの仕送りを献金していました。

 '95
年に入ってからは一層深くのめり込んで行くようになりました。そのような状態の中でその年の4月に、初めて親に統一協会に行っている事を明かす事になりましたが、現状をそのまま明かすと反対されるので、「まだ通い始めたばかり」とウソをつくように言われました。ウソをつくことには抵抗がありましたが、統一協会のためのウソは善だと教えられていたので罪悪感はありませんでした。その約1カ月後、私を統一協会に誘った人が親元から統一協会に戻ってこないという事がありました。その時は、何とかして統一協会に取り戻そうとして、統一協会員数人と一緒に彼の実家を見張ったり、車を追跡して居所をつきとめようとしたりしました。このように私の判断基準は全て統一協会から来るようになり、統一協会から離れることなど考えることもできませんでした。

 そんな中で、'95年の年末、帰省の際に家族と話し合いを持ちました。統一協会では、「このような時は、逃げてきなさい」と教えられていたので、家族との話し合いの場から逃げる事ばかりを考えていました。ドアや壁をたたいて幾度となく暴れたり、胃を悪くした事を口実に統一協会に戻ろうとしたり、断食をしてみたりと、様々な事を考え、試み、家族との話し合いを放棄しようとしましたが、その度に家族が忍耐を持って守ってくれました。もっとも、私には「家族が守ってくれている」などとは思えませんでした。自分の一番大事なものを奪おうとするサタンの仕業にしか思えず、統一協会の信仰を守る事だけを考えていました。しかし、牧師先生方が来て下さって学びを続けていく中で、それまでは絶対に正しいと思っていた統一協会がほんの少しでも間違っているのではないかと思うようになりました。そして、そう思うようになってからは、少しずつ客観的に見れるようになり、ついには完全に間違いを認める事ができるようになりました。

 しかし、同時に、それまで完全に信じきって人生のすべてを委ねてきたものが間違いであったという事実が大きすぎて、脱力感におそわれ、これからどのように生活していったらいいかわからないという不安定な状態になりました。そんなとき、教会で心の整理をさせて頂くことになりました。聖書の御言葉を聞いたり、様々な働きに触れる事で心の整理ができ、また平安が与えられて、本当に重要な時間を過ごさせて頂いたと感謝しています。また、この期間は、本当の信仰へ導かれる期間ともなりました。統一協会で間違って教えられていた聖書の御言葉を正しく解き明かしていただき、イエス様は真の救い主であられ、十字架上で人類の救いを完成されたことを知り、イエス様を個人的な救い主として受け入れることができました。このような者をも顧みて憐れんで下さった神様に感謝します。



 元統一協会員の証言
20代男性、2年半信仰

 93
年の春、一人の男性が青年サークルのアンケートという事で訪問に来ました。その頃は、大学に入り、一人暮らしを始めたということもあり、向上心や好奇心があった時期でしたが、向上心はあっても、何をしたいのか、何をするべきか、将来どうするかということがわからないという時期でもありました。そのため、人生や社会、あるいは人間の根本的な問題について学べるというサークルの内容に強くひかれ入会するようになりました。入会して5カ月たった時、初めて統一協会の名を明かされました。そのときは原理(統一協会の教え)を聞いた後でもあったので、「自分の持っていたイメージとは違い、素晴らしい真理を待った団体だったのだ」と思い、入信しました。

 統一協会での活動は、学生伝道、万物復帰(経済活動=物売り)が中心でした。どの活動にしても、学業の時間をさいて行っていましたが、この道が唯一の救いの道と信じていたので、他の何を犠牲にしても行わなければならないという思いで活動していました。献金に関しては、学生で経済力はありませんでしたが、献金はしなければならないという強迫観念があったので、少ないながらも親からの仕送りを献金していました。

 '95
年に入ってからは一層深くのめり込んで行くようになりました。そのような状態の中でその年の4月に、初めて親に統一協会に行っている事を明かす事になりましたが、現状をそのまま明かすと反対されるので、「まだ通い始めたばかり」とウソをつくように言われました。ウソをつくことには抵抗がありましたが、統一協会のためのウソは善だと教えられていたので罪悪感はありませんでした。その約1カ月後、私を統一協会に誘った人が親元から統一協会に戻ってこないという事がありました。その時は、何とかして統一協会に取り戻そうとして、統一協会員数人と一緒に彼の実家を見張ったり、車を追跡して居所をつきとめようとしたりしました。このように私の判断基準は全て統一協会から来るようになり、統一協会から離れることなど考えることもできませんでした。

 そんな中で、'95年の年末、帰省の際に家族と話し合いを持ちました。統一協会では、「このような時は、逃げてきなさい」と教えられていたので、家族との話し合いの場から逃げる事ばかりを考えていました。ドアや壁をたたいて幾度となく暴れたり、胃を悪くした事を口実に統一協会に戻ろうとしたり、断食をしてみたりと、様々な事を考え、試み、家族との話し合いを放棄しようとしましたが、その度に家族が忍耐を持って守ってくれました。もっとも、私には「家族が守ってくれている」などとは思えませんでした。自分の一番大事なものを奪おうとするサタンの仕業にしか思えず、統一協会の信仰を守る事だけを考えていました。しかし、牧師先生方が来て下さって学びを続けていく中で、それまでは絶対に正しいと思っていた統一協会がほんの少しでも間違っているのではないかと思うようになりました。そして、そう思うようになってからは、少しずつ客観的に見れるようになり、ついには完全に間違いを認める事ができるようになりました。

 しかし、同時に、それまで完全に信じきって人生のすべてを委ねてきたものが間違いであったという事実が大きすぎて、脱力感におそわれ、これからどのように生活していったらいいかわからないという不安定な状態になりました。そんなとき、教会で心の整理をさせて頂くことになりました。聖書の御言葉を聞いたり、様々な働きに触れる事で心の整理ができ、また平安が与えられて、本当に重要な時間を過ごさせて頂いたと感謝しています。また、この期間は、本当の信仰へ導かれる期間ともなりました。統一協会で間違って教えられていた聖書の御言葉を正しく解き明かしていただき、イエス様は真の救い主であられ、十字架上で人類の救いを完成されたことを知り、イエス様を個人的な救い主として受け入れることができました。このような者をも顧みて憐れんで下さった神様に感謝します。


 

元統一協会員の証言
当時20代女性

 私はは88年6月から3年2ケ月、統一協会と関わっていました。18歳の時に高校時代の親友から誘われたことがきっかけです。その頃の私は人前では明るく、また平和についてや、社会や家庭でもどうすれば人と人とが本当の意味で愛し合えるのかを考えていました。しかしその反面で、心の中では子供の頃からの苦しい思いから逃れることが出来ず、家族への憎しみや、寂しさや醜い思いがいっぱいで、いつも理想と自分自身の心の苦しさの間で葛藤していました。そんな私の性格や考えを、よく知っている友人は、「同じような目的を待った人達が活動しているサークルがある。」ということで私を統一協会に誘いました。 初めのうちは疑問をいだいたりもしましたが、私が統一協会に深く入った決定的な原因となったのは、2DAYセミナーで話されたイエス・キリストの存在でした。統一協会での教えは十字架は失敗だったという間違った教えですが、その時の私にとって、生まれた時から、私を見ていてくださる方がいたということ、そして、人間が自分ではどうしようもない罪のため、私のためにイエス・キリストが十字架で死なれた、というだけで十分でした。人をゆるせないと思っていた自分自身が一番ゆるせない存在だったんだと思いました。それまで自分を支えていたものがくずれ去って、涙があふれて、初めて気持ちが楽になりました。自分では「罪」「救い」という言葉の概念はなかったけれども、今まで自分を苦しめてきたのはこの罪であり、この解決こそ求めてきた救いだと思いました。今思えば、その時から無条件に教えを信じていきました。

 間もなく母の猛反対にあいました。「霊感商法、合同結婚、洗脳、行方不明」などあらゆる事を言われ、反対されましたが、統一協会の上司に相談をしたところ、統一協会の教えに添った様々な解答がなされ納得しました。結局は反対されることによって、統一協会の教えを、先に一通り学ぶことになりました。しかし、毎日、夜中じゅうの大喧嘩と統一協会での反牧対策(統一協会をやめさせないための対策)によって、身動きがとれなくなり、それ以上、通いつづけることが出来ず、一旦、統一協会から離れました。

 しかし一度信じた統一協会の教えは、簡単に離れるものではありませんでした。かえって統一協会から離れることによって世間での生活がしづらくなりました。つまり統一協会では「この世はサタン世界であり、全ての人間はサタンの血を受け継いでおり、統一協会とつながっていない限り、決して救われることはない」という思いが心の深くにしっかりと根をおろしていました。そのため、私はだんだん人が恐くなり、また自分の行動に何の意味もなくなり、不安と空しさの生活の中で、人間らしい感情も失っていきました。また、ニュースで大事件や大事故がある度、自分がやめた事に責任を感じました。そして、やめてから2年5ケ月たった1991年の1月に、湾岸戦争をきっかけとして自分から、再び統一協会に戻りました。

 その年の8月に家族と話し合いのときを持ち、牧師先生が統一協会についてお話してくださいまし
た。聞いてもなかなか分からなかったり、分かりかけても恐怖心や揺れもどし、色々な悲しさで、どうしようもありませんでした。この世の中にはやっぱり希望はなかったと思い、一生、心から笑えないだろうと思い込んでいました。味覚もなくなり、お茶も受け付けない日が続きました。しかし、苦しい心の中にも、牧師先生が教えてくださるイエス様の話に、心打たれ、最後の方は毎日、泣きながら聞いていました。大変、不安定な気持ちで教会へ心の整理に来ましたが、聖書の学びと周りの方々との交わりを通して、次第に落ち着いてきました。そしてイエス様が失敗者などではなく、本当の救い主であり、イエス様の十字架こそが救いであることを教えていただき、本当に感謝でした。何にもかえられない幸いをいただくことができ、感謝しています。


元統一協会員の証言
当時20代女性、2年の信仰

 私は20歳の頃から、統一協会に2年4カ月間かかわっていました。友人からは統一協会とは知らされず、サークルとしてビデオセンターに誘われました。その頃の私は看護学生で、人の命を預かる看護という仕事を生涯やっていけるだろうかと不安に思っていた時でした。ここでは聖書を使って、人生の学びができ、人格を高めていけるところだということでしたので、入会しました。ここの人たちは、私の話をよく聞いてくれるし、優しく、人格者のように見え、ここで学べば自分も人格者になれるかのように思いました。高校がミッションスクールだったので、聖書には関心がありました。「聖書の奥義が学べる」とか「聖書を通して人格を高めることができる」とかの言葉は魅力的でした。聖書を知らない私にとっては、新鮮でただただ受けとめていきました。統一協会の教えを信じ、文鮮明を再臨のメシヤとして崇め、活動に邁進していきました。

 統一協会での活動は、人を統一協会に誘う伝道活動と、宝石、毛皮や着物などの展示会に誘って買ってもらったり、物売りなどの経済活動がありました。先祖の犯した罪が因縁として私にまとわりついている。この因縁を断ち切り、家族、先祖、子孫のために命懸けの信仰と活動をしていくことが救いであると信じていました。統一協会の教えに、統一協会にとって大きなよい目的のためならば、小さな悪、つまりウソなどはよいことと見なすということがあり、伝道活動や物売りの中で、日常茶飯事のようにウソをついて、真理であると信じていた統一協会に多くの人を導こうと思っていました。このように私は、自分からやめることのできない状態にまでのめり込んでいきました。

 そんな中で、家族との話し合いのときが与えられた私は、9日間の断食と無言の抵抗を続けました。牧師先生が統一協会から出ている資料で話してくださいました。このような牧師をサタンであると教えられていたので話を聞かないように努めていました。しかし、毎日話してくださる先生の姿は暖かく、無理やり信仰を奪おうとする態度ではなく、私を一人の人格者として尊重してくださいました。家族は、私を統一協会からやめさせようという態度ではなく、私の心を理解しようと、忍耐強く愛情をもって熱心に接してくれました。牧師先生は真実を話してくださっているのだとわかり、私は心を開き、統一協会が間違っていたことを認めることができました。

 私の心と頭の中には統一協会の教えが染み付いていました。命懸けで信じていた統一協会の信仰が間違っていたことを受けとめた私の心の中は無気力、虚無感、脱力感でこれからの人生をどうしたらよいのかと、暗くふさぎこんでいました。

 教会で心の整理をさせていただきました。統一協会でやめた人は廃人になると聞いていましたが、そのやめた人の体験を聞いたり、元気で社会生活を送っている姿を見て慰められ、励まされました。また、聖書を正しく学び、本当の神様を知り、イエス様は救い主であって、私の罪の身代わりとなって十字架で救いを完成してくださったことを知り、信じることができ、心の依り所を見つけることができました。自分の罪、先祖の罪を自分の信仰や活動によって晴らしていけると考えていたことの傲慢さを知りました。今も統一協会で命懸けで信仰している人が早く真実、事実を知り、吟味するときがもてますようにと祈っています。


元統一教会員の証言
男性25年信仰
プロフィール

1950年代早くに生まれる。
1974年、カリフォルニア州にある統一教会に入会。
・カリフォルニア、ニューヨーク、テキサスの各州で万物復帰を含む路傍伝道で働く。
1982年、韓国で、日本人姉妹と祝福を受けた。
1991年、日本へ移住。
1999年、最終的に教会から脱会。
・妻子と共に現在日本で生活。

ミカ書 68
主よ、何が善であり
主が何をお前に求めておられるかは
お前に告げられている
正義を行ない、慈しみを愛し
へりくだって神と共に歩むこと、これである。(新共同訳)

以下の記事は本来ARUに載っているもので、Isshiの許可を以ってここに重載されてい
統一教会の正直さ


数年前、文鮮明がこんなことを言っているのを私の妻が聞きました。「あなたがたは原始的な魂に従わなければならない」(日本人のグループに向かって語られたもの)。意味ははっきりしていないが訳し方は他にもあるでしょう。教祖が道徳的に私たちを力づけたとその時私は思いました。しかし振り返ると、どうともとれるありきたりの言葉でしょう。特にアジアにいる時は、「絶対信仰、絶対服従、絶対愛」のような呪文を耳にしますが、その強調点はほとんど「絶対服従」に落ち込みます。

財政的に闘っているメンバー、配偶者・子供たちと断絶したメンバー、「絶対服従」に至ってないために彼ら自身を責めるメンバーを見ると悲痛な思いになります。真の父母様/統一教会への完全服従は、家族を無視するよう要求し、それは内面の葛藤と自責心を生じさせます。統一教会の多くの活動(大理石のつぼ、金の印鑑、純血キャンディー( Pure Love Candy )、茶器セット等々)は詐欺を要求します。高貴だと思われる良い人々が、自己欺まんを行なっているのを見るのは、悲嘆以外の何物でもありません。

基本的に誠実さ(と一般的道徳)は統一教会では強調されません。良いメンバーであることは、信仰的・犠牲的であることを意味し、指導者の考えに服従することです。誠実さそのものの考えに関わっているメンバーは、信用されません。

私が大変よく知っているある韓国人指導者は、誠実さの話題のたびに常々こう言います。「赤ん坊にステーキを与えるようなことはしない。」嘘やだましは無制限なばかりでなく、だまされている者の旨みでもあるのです。

私が統一教会で最も尊敬していた指導者は、ユダヤ系のアメリカ人でした。彼は一度演説でこう言いました。「不道徳、非合法、不誠実には何もするな。」彼は基本的に他の指導者たちによる活動からつまはじきにされていましたし、もはや活動を持っていないかせいぜい窓際に置かれているでしょう。

昨年ある統一教会内グループで発行している回報で、私たちの活動は不誠実、不道徳的であり、もはや支持できなくなったと私は公開質問状を出しました。指導者たちは誰も回答しませんでした。回答のあった中である者は、私が統一教会の真意をあえてただそうとしたとして激怒しましたし、またある者は多少誠実さが欠けていても大丈夫だと答えました。またあるメンバーは私を応援しようとして電話し、「あなたは正しいが不誠実は私たち全員にとって自明のことだ。それは変わりっこない。どうしてそんな公開状をわざわざ書いたのだ」と聞きました。彼の主な結論はこうでした。「文鮮明は救世主。彼が望めばなんでもできる。」

誠実さの考えは、ユダヤ教徒とクリスチャンの遺産に由来するほとんどの西洋人によって、共有されていることを思い出して下さい。面目や地位を保つことは、東洋(と統一教会)の文化の中で、より重要な価値があります。誠実さの感性を持つことは、神を中心に置く真理に参集するという意味を伴います。そしてそれは文鮮明や原理講論を中心に置くこととは、単に両立しません。誠実さの感性は統一教会では役立たないばかりでなく、組織活動で効果的役割を担う上で障害です。私の知っているすべてのメンバーがこのことと闘っています。ひとりひとりが。(個人的)廉直さに対する願望が増した時、私は統一教会から離れなければなりませんでした。

これを読んでいる統一教会の活動にまだある方へは、敬意を表し、またお願いしたい。オートバイのマフラーを取り払い、夜の3時半に住宅地を惰走しながらエンジン速度を上げている誰かを想像して下さい(日本で夏の夜に発生する)。何百という家庭の眠りを引き裂きながら、何千という怒りを招くのです。霊的に計ると、大いなる賠償金を自ら負うことになりました。他人をだますことはこれと同じことです。それは償うべき負い目をそれ自身で抱え、実際神を退けてしまうのです。神の業が人々をだまして救済させるのですか。悪い考えは悪い実しか結ばないのです。

逆に言うと、神は誠実さと喜びを愛される(箴言111節その他)。それが魂を持っていく道でしょう。私のジレンマを解決するのに役立ったあるユダヤ人の言葉から引用して、締めくくらせて下さい。

これが道徳的一神教信仰である

神がおられる。
神の根本的要求は道徳である。
道徳なき神は、信仰悪を導き
神なき道徳は、信仰なき悪を産む。

  


元統一協会員の証言
主婦、11年の信仰

 

 私は1989年の2月から2000年10月まで11年8ヶ月間、統一協会員の4000万双、既成祝福家庭でした。
統一協会に入信する事になったきっかけは、訪問の手相からでした。普段は開けないドアをその日にかぎってドアを開けたところ、清楚できれいな若い女性が立っていました。その時は友人がきていたせいか気軽に観てもらうことにしました。夫婦関係、子供の事を聞いたと思います。

その頃、家庭、親の事などで何とかしたいと言う思いが強かったので、彼女の言葉が希望的に感じました。そして丁度その頃は、霊界のこと、人間の心の中には、善と悪があること、宇宙の事、神、自分の事になると面倒な事も人の為に何かをする時には同じ事でも心良くする事がなぜ出来るのだろう。とよく考えていた時でした。
そう考えるとビデオセンターに行き、因縁とか、霊界の話し、神の事、為に生きる、人類の目的などを語る統一協会の教えは、目からウロコが落ちる思いでドンドン引き込まれて行きました。

もともと宗教の勧誘は受け入れない性格でしたが、もうその時には、実は宗教で統一協会だったと聞いても、メシヤが文鮮明だと聞いてもすべてを受け入れていました。何もその頃は疑うものはありませんでした。ただ「サタンが引っ張ろうとするので、たとえ体調が悪くても、子供が熱を出したとしても、超えて来たほうがいい」と言われていました。
(統一協会は神が願われている地上天国、天上天国を実現する人類が救われるのは唯一この道しかない神側でサタンは神の成そうとする事に足を引っ張ろうとする)

「家族、友人にも(まだ真理を知らない人はサタン側なので)話さないほうがいい、あなたがこれなくなるとせっかくここまで導いた神様、先祖が悲しむ」それどころか、「真理を知ってからやめると霊界に行くとすべてわかるので、やめさせた人、やめた人、は先祖から恨まれ、地獄に行く。家族も氏族も救うことは出来なくなる、また一からこの氏族の中からこの真理に出会う人を捜し出し導かなければならない、導かれてやめたりしたらこの真理だけが、救いの道なので先祖がもう一度知らせるためにたとえ災いを家庭に起こしたとしても気がついてほしいと望む」と、具体的にある方は、一度やめたけれど、家が家事で焼けてまた再び教会へ戻って来たとか、子供が交通事故に遭い戻って来たなど例をあげて時々私たちに話しをしたりしました。

もうそうなると、自分はやめない、やめることは出来ない家族のためにも、氏族のためにもそして神の理想世界を実現するためにも。夫にはそれまで聖書の勉強のサークルに行っているとウソを言って出かけるようになりました。早くこの真理を伝えたかったのですが、時が来るまで待とうと思いました。肩には使命の重さが乗っかっていたとしても、普段は原理の勉強自体は講師の人もジョークを交えながら内容も興味深く引き込まれ、そして自分が神様や先祖の功労により選ばれ導かれたと言う喜びもあり希望をもつようになりました。

たとえ子供に熱があったとしても、「これがこの子も神の為に救いの条件をたてた事になるのだ」と考え親として心配で辛くても超えて行くようになりました。「超えることによって、神様と先祖がその子供を守るから案外だいじょうぶ。」と言われ、また本当に超えてみると何事もなかったり、熱も下がったりするとその言葉が本当のように感じました。

その後、実践トレーニングでお茶売りをするようになり、自分がまさか訪問販売のような事をするとは考えてもみませんでしたから「なんで私がこんな事をしているのだろう」と気も進みませんでしたが、上の人が「神様を感じる為、神様の心情を理解する為には必要な事」といい、毎日お茶売りから帰るとトレーニング生、班長、隊長と輪になり「今日はどの様な神様に出会いましたか?」と聞かれました。私はあまり神様を感じる事ができず、答えるのに苦労し、時には周りに合わせて答える事もありました。

たぶんこのようにして知らず知らずのうちにマインドコントロールされていて、訪問での手相から数ヶ月で統一協会の考え方、とらえ方にすっかり変わっていたと、今では感じます。

高麗人参、着物、宝石などの展示会に友人、知人を誘う事もその人が救われる為に天のものを授けたいと言う思いで、人間的に考えれば言えない事も、超えて水行や断食をしながら誘いました。しかし、条件をたてても断られたり、突然キャンセルになったり、たとえ展示会に来たとしても授からなければ、自分の心情が悪かったとか、足りなかったと自分を責めるのです。しかし今では、それは、普通の出来事で一般の会社であることと何ら変わりない事だったと思いますが、そのように考えることも出来なくなっていました。

その後、礼拝で中心者が「もう、家族、氏族に隠す時代ではない!」という言葉を真に受け、その日に夫に手紙で統一教会に入信していることを伝えました。(後で聞くところによると真に受けて話す人はいないようでした、まだ信仰が浅く、子育て中で世の中の事には情報も乏しく、統一協会がどれほど反社会的に見られているかは知らなかったので、もっと単純に考えて夫に明かしたのです。)

その日から家庭、親との戦いが始まりました。夫は統一協会のことを調べ、反対をしている人達の本などを持ってきて猛反対をしたのです。もうその時から夫の言葉には耳を貸すことはありませんでした。「夫は原理を知らないのだから」「私がまだ尽くし足りないから夫の背後にいるサタンは屈服しないのだ」「きっといつかはわかってくれる日がくる」夫は夫でなんとかやめさせようと努力するのですが、反対されれば、される程、「自分だけでもこの信仰を守らなければ家族が地獄にいくことになる」ともっと深く信じ、信仰にのめり込むようになるのです。そして夫にウソも少しずつ増えてきて、ないしょで着物や宝石を買っては、ばれてその度に夫婦の溝が大きくなっていきました。

すべて反対の強い家庭の人が深く入って行くとは限りませんが、その家庭、家庭での背景も複雑にからんでいるのです。

自殺者が多い家系、離再婚が多い家系、様々な背景によって本人がどの様にとらえているかによっても違ってくると思います。周りの状況で考えると比較的に夫の反対がない家庭、「好きにしたら?でも自分は誘わないで」という方のご婦人のほうが、そこそこの信仰を保っているようにおもいます。ただやめるのは、何か災いが起きたらいやですし、原理の教えは信じているので辞めようとまではしないのです。

以前にも、文鮮明の言葉で「脱会するよりも、籍は残し、来ない方がまだましである、髪の毛一本でもつながっているほうが良い」というような言葉がありました。だから、中にはそうゆう方もいます。しかし、そこそこでも救われるのに、なぜたくさんの人は苦労をしても必死に信仰を高める人がいるかというと、個人の責任感もあると思いますが、神、メシヤと共に苦労し歩むことによって、恩恵がある(後孫がその恩恵を受ける)、霊界へいくと先祖から「神様も真のご父母様も身をけずって理想世界、人類救出のために働いているのに、せっかく導いたのにおまえは何をしてきたのだ」と批判をうける事もイヤですし、(霊界での事は日々話しに使われているので)、天的(神側、神=親からみたらどうだろうか)と考えると、親が子供に「苦労は買ってでもしろ」と思うように、苦労する姿をみる事は忍びないけれど、それもこの子の為と見ている姿を思うと、私達(子供)はどんなに苦しくても、悲しいことがあっても、頑張るし、喜びもあるのです。そのようにしながら、反対する人達の言葉にも、耳を貸さなくなります。

私は途中から家族の監視も強くなり、なかなか教会に行くことは出来なくなった時期もありましたが、その間は教会では、「報告、連絡、相談」は必ずする事になっているので、隠れながら、出来る限り守り電話でしていました。

1992年TVで話題になった桜田淳子さん達の合同祝福結婚式の時期、霊感商法などを大きくとりあげられていて、私の目にも飛び込んできました。当時私は引っ越したばかりで、教会の移転手続きが出来ていなかった為行くところも、連絡もする事が出来ませんでしたので、報道を見て、わずかに心揺るがすものはありましたが不安な思いとか、疑問はすぐにうち消そうと見るのを辞めてしまいました。心のどこかにもしこの信仰がまちがいだと知ったとしても今更やめられないと思ったのかも知れません。

その内に仕事も本格的に始め一年位経ったころ、教会でよく知った方とバッタリと会う事が続いた時に私の信仰生活は再び深いものになって行きました。また、ウソも多くなってきたのです。絵画の購入、献金などがわかってしまい夫の怒りもつらさも理解できるけれども、教会の教えではそれは、すべてウソも良い事になるのです。しかし実生活では、教会ではどんなに忙しくて大変でも家の事はしっかりやり、夫、子供、親に尽くし、愛しなさいと言うものなので、溝が深まりながらも、限界以上の努力を心がけるのです。出来ずに夫や家族の怒りをうけると、自分の尽くし方が足りなかったと自責するのです。こんな矛盾が生じた生活が起こっていきました。

1997年11月ワシントンでの合同祝福結婚式、夫、家族の反対をおしきり渡米、私の信仰は命がけになって行きました。「超える」というハードルは初期の頃よりも、もっと高いものになっていました。家庭でも針のむしろのような状態、何か事がある度に家族の顔がこわばり、心の中で「死なんとする者は生きん」という言葉が住み着くようになりました。神様とメシヤだけは自分の苦しさ、悲しさをすべて知っている。信仰の兄弟姉妹はわかってくれている。それだけが孤独での中の唯一の慰めでした。

しかし私以上に夫、家族、それを知っている友人の気持ちは本当に苦しいものだったと思います。どれ程傷をつけて、心配もかけてしまっていたでしょうか。

1999年、2000年世の中では世紀末と騒がれ、ますます教会での摂理、活動も、献金も激しいものとなり、献金に対しても露骨に詰めがはいるようになりました。時には脅しに近いこともありました。(中心者は神の立場から言っているので脅しとは感じませんし、言うほうも体力的、精神的にも私達以上にギリギリで徹夜祈祷、夜中の訓読会、敬拝の条件、断食等いつ倒れても不思議ではありませんでした。

そのように上の人達の必死に神、メシヤを思い、支えようとする姿やつらさもわかっていたので何も言う事ができませんでした)これは、私のいた教会の事で、他のところではわかりません。私はその姿をみて、支えたいと思いました。その頃の話しで、ある教会員の婦人が夫に隠れて多額の献金をして、離婚になってしまった方が二人いました。しかし教会側の考えは、それでも良いと言いました。「神がすべてその方の事情、心情を理解しているので、問題はない」と。すべて神の為、人類の為にそこまで戦いきったのだから。神様は祝福を与える?当時の私はそれを理解していました。自分もたとえ離婚され、家族に見放されたとしても、行ける状態であればどこの国へでも行くし、最後まで、神から受けた使命を全うしよう、自分を犠牲にしても。と考えていました。信者はつねに、「いつかはわかってくれる日がくる。」「いつか多くの人がこの真理を知り受け入れてくれる」「霊界にいけば、すべての人が真実を知る」と。しかし現在は、その「いつか」は来ることは無い事を知りました。現実にはあまりにも信者の心と反対をしている夫、家族の考えている事と気持ちがかけ離れているのです。(この事もカウンセラーの方によって見ているところの違いを知りましたが、当時はお互いに「どうしてわかってくれないのだろう」と思っていたと思います。)

そして統一協会員は不安、疑問、矛盾を感じたときに「これは、不信仰な考え方だ」「何か意味があるだろう」とそれ以上考えることを止めてしまいます。実はその気持ちが本心だったのだと今は思えますが、当時はすべて「悪いこと」として深くまで考えなくなっていました。

そして自分の置かれている立場からも限界をこえなければいけなくなって、ますます異常な生活、教会(集会、展示会、伝道、報告、連絡、断食、訓読、祈祷、敬拝、会議など)家庭の反対、借金地獄、仕事との中で、普通であれば生きていくことは出来ないと思っていました。

とうに自分の限界も超え、自分だけで精一杯片意地はった生活にその日、その日をただ必死になって生きている時。

2000年秋、私は友人、夫、家族、親戚の必死の努力と協力のもと救出カウンセラーの方により、統一原理の間違い、末端の信者には知らされていない事実などを知事ができました。

最初は反発し家族と何度も口論になり、らちがあかず、その間「この今置かれている状態はどんな意味があるのだろう?」神様、真のご父母様に祈り、断食をしたりもしましたが、まったく答えを与えることができず、ゆだねて行くことにしました。そんな私の姿をみている家族も大変だったと思います。今になり良かったと思えることは、一度も「信仰をやめろ」とは言われなかったからです。最後まで「自分で決めなさい」と言ってくれていたこと、そして、カウンセラーの方の私への心づかい、信者の心、立場にたっての言葉は私の姿勢を変えました。だから聞く耳を持ち、心を開くことができたのかも知れません。

それからは原理講論と聖書だけですぐ原理の間違い、矛盾がわかった時に、私は愕然としました。あれほど尊い教えでもある物が、聖書に全然及ばないものであったと理解した時にガラガラと私の信じていたものがくずれ始めました。それからは、聞くことに対してすこしづつ客観的に考えるようになりました、しかしこの12年近い信仰は、そう簡単なものではありません。間違いは理解できても、文鮮明、韓鶴子に対して、その他、この信仰で出会った人々、霊界に対してはなかなか心で認めることができず、苦しみました。どんな状態の時も、家族は見守り、カウンセラーの方は受け止めてくださいました。そして元メンバーの方が私の疑問、不安に答えてくれ、励まされました。

本当にこの信仰が間違いだったのなら死んでしまいたいと一時は思いました。それ程、周りに対しても犠牲が大きく、自分の中でもすべてだったのです。脱会を決めた時から私の側にいつもいた神様がわからなくなりました。とてつもない寂しさが襲ってきました。

現在は夫、家族の見守りの中、カウンセラーの方のアフターケア、弁護士さん、元信者のメンバー方の協力のもとで、少しずつ自分を取り戻しています。脱会を決めてからは「自由」がこんなにすばらしいものだということを感じられずにはいられませんでした。信仰期間、自分であるようで、自分ではなかったのですから。

そして、感じることが出来なくなった神様が今また私のところへ戻ってきました。私のすべてを知り、この日がくるまでに準備をしていた神様に深く感謝しています。


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